教会便り / 牧師室の窓
牧師 平野克己
○代田教会会報 2022年8月号より
主日礼拝で私が説教するときには、創世記第12章から25章までにある「アブラハムとサラの物語」に耳を傾け始めています。ご一緒に旧約聖書の醍醐味を味わいたいと願っています。◇アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。しかし旧約聖書を読むと、模範的な信仰者とはとても言えません。彼は神の祝福の約束を信じて、妻サラと共に旅立ちました。しかしすぐに訪れたのは飢饉。アブラハムはエジプトに身を寄せ、しかもエジプトの王に妻の身を売るというとんでもないことをしでかします。夫婦の間にどれほど深い傷が残ったことでしょう。その後もアブラハムもサラも神の約束を疑い続けています。◇アブラハムとサラは、愚かな私たちとどこか似ている「父」であり「母」なのです。しかしだからこそ、神が実力を発揮されます。そうして祝福の約束を貫徹なさいます。◇コロナの「第7波」、長引くウクライナでの戦争、不安定な政界、長引く不況、その上に酷暑と思えば豪雨という天候。私たちもはたはた疲れ、心が不安定になります。しかし神は、私たちよりもずっと忍耐強い方です。弱音を吐く私たちに、祝福の約束を実現なさいます。信仰とは私たちの信心のことではなく、神の真実のことであるからです。◇アブラハムとサラは、この真実な神、忍耐の神、希望の神に支えられて旅を続けました。そして、最後には2人にこどもが与えられます。その名は「イサク」。「笑い」という意味です。私たちの物語の結末は、失望ではなく豊かな笑いなのです。(平野克己)
○代田教会会報 2022年6月号より
長老会では約1年をかけ、性的マイノリティ(LGBTQ)の方々のこと、そして所属する集団から期待される性的役割(ジェンダー)がもたらす苦しみについて学び、語り合ってきました。◇私たちは出生時に肉体の特徴をもって「女性」「男性」と2つに分けられ、法律上の性別を認定されます。しかし、その性別と自己認識する性別が一致するとは必ずしも限りません。また、その人個人ではなく性別によって、「男らしく」「女らしく」という期待と社会的役割を押し付けることが、相手を苦しませると同時に集団を不健康にすることがあります。◇代田教会として大切なことは、いま傷ついている方々がいたるところにおられるという現実です。そこで、まずはすぐにできることからと考え、7月から次の2つの対応をいたします。◇その1つは、受付で出席票を記すとき、その出席票を「女(赤)」「男(黒)」のいずれかに入れる2つの箱をなくし、箱を1つにします。もう1つは、週報、会報、その他の公式文書を教職・長老が記すとき、「兄」「姉」という敬称を用いないこととします。◇これらのことは代田教会で長く続けられてきたことで、多くの方々には意識していないことかもしれません。それでも、「女性」「男性」に大別されることに違和感のある方々に対して、不要な痛みを与えることは避けたいと考えています。◇小さな変化です。しかし私たちが神の前で共に生きる群れを築き続けていくために、大切な変化です。ご理解とご協力のほど、よろしくお願いいたします。(平野克己)
○代田教会会報 2022年5月号より
この5月には、若者たちと時間を過ごす機会が多くありました。◇7日には、代田教会の大学1年生たちが集まりました。すでに洗礼を受けている若い教会員、幼稚園の卒園生、教会員の子弟、そして今春上京してきた者たち。大学1年生たちは全部で14名もいるのです。その日集ったのは9名。おそらく代田教会の歴史を紐解いても珍しいことでしょう。初対面の仲間にも自然に心を開き、あっという間に輪に招きいれる優しさに心あたたまる思いがしました。◇18日には、母校国際基督教大学(ICU)に招かれてラウンジ・トーク。なぜこの大学に「C(キリスト教)」が重要なのかを話しました。開放的なスペースに約40名の学生が集まり、1時間半に及ぶ話にも真剣に耳を傾けてくれました。◇大学卒業後、間もなく40年が経ちます。この間、私が仕残してきたことは、先達に学んだことを受け継ぐことだったと思います。これからの世界と日本社会。きっと若者たちには、私がこれまで体験したことのない厳しい現実が待ち構えていることでしょう。それでも幸せなことは、2千年にわたる時代、あらゆる場所で語り伝えられ、人々を支えてきた「福音」を私もまた知っていることです。主イエス・キリストが、私に対してそうであったように、次の世代の者たちにも、必ず生きる力を与えてくれることでしょう。◇代田教会で死別の悲しみに立ち会う5月でもありました。だからこそ、大江健三郎の小説の題となった言葉を思い出します。「新しい人よ、眼ざめよ!」(平野克己)
○代田教会会報 2022年4月号より
先月『説教・十字架上の七つの言葉─イエスの叫びに教会は建つ』が刊行されました。これまで約20冊の書物の執筆と翻訳に携わってきましたが、この本は初めての説教集です。表紙には私の名前だけが記されていますが、本書は多くの方々との共作であると思っています。◇担当は、キリスト新聞社の桑島さんという若手編集者。6年前、入社間もなく、同新聞社創立70周年記念礼拝で私の説教を聞き、心を打たれたのだそうです。本書を企画し、ちっとも作業に取りかからない私を励まし、録音から全文の文字起こしをしてくれました。私の説教は少し変わっていて講演調であるより、多くの場面が組み合わされてできあがるなるドラマのようなところがあります。彼は、その特長を生かしたいと願い、あまり見たことのないレイアウトをしてくれました。◇表紙や各説教の扉絵は井上さん。大阪で中高生キャンプの講演をしたときにいた教会学校の先生です。現代の聖画家になりたいと目を輝かせていた人でした。彼のダイナミックな十字架の連作が、私たちを様々な思いに誘ってくれます。◇そして、この説教は代田教会の皆さまとの共作です。実際、匿名のまま皆さまのうち何人かが説教に登場します。皆さま一人一人を思いつつ、祈りつつ、準備し語った説教です。◇牧師として強く願っています。この書物が、まず代田教会の皆さまに繰り返し読んでいただける本となりますように。同書に収められているのは、私の言葉であるよりも、十字架上の主の言葉であるからです。(平野克己)
○代田教会会報 2022年3月号より
「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5・4)。◇悲しみの多い日々です。新型ウイルスに脅かされる日々は3年目を迎えました。戦場と化したウクライナの様子が連日報道されています。さらに3月に入り、2人の教会の仲間を次々に天に送りました。それでも主イエスは、悲しみに留まり続けることの幸いを告げておられます。どうして、悲しみに留まり続けることができるのか。それは、必ず「慰められる」という約束があるからです。◇なぜウイルスが猛威を奮い続けるのでしょう。なぜ21世紀にもなって戦争をやめることができないのでしょう。なぜ人は病み、老い、死んでいくのでしょう。私たちは答えを求めようとします。けれども、きっと簡単な答えはないのです。答えはただ、神の御手の中にある。いつの日か、その御手が開かれて、私たちは慰めと共に答えを知ることでしょう。◇十字架の前夜、ゲツセマネの園で、主は弟子たちに言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(マルコ14・24)。私たちよりも深く、主は悲しみを味わっておられます。そして弟子たちに、ご自分の悲しむ姿を見つめるように願っておられます。きっと本当のことは、悲しみのただ中から生まれてくるのです。主イエスは泣かない方ではありませんでした。涙を流されました。心が凍りつくと、怒ることはできても泣くことはできません。私たちにも、慰めを待ちつつ悲しむことを、主は教えてくださっています。(平野克己)
○代田教会会報 2022年2月号より
どうしてなのか、この頃、代田教会長老Sさんを思い出しています。2011年12月1日の別れの日から、10年が過ぎました。64歳の死でした。◇Sさんは、癌の宣告を受け、治療が難しいとわかると病と闘うことではなく、残された日々を大切に生きる決断をされました。その一つは長老職を全うすることでした。古くなっていた教会原簿をすべて美しい字で書き写し、私に同行して病院や施設に教会員を訪問し、あるいは、教会員すべてに誕生祝いの葉書を書きました。車椅子になっても、家族に支えられて礼拝に出席していました。◇読書を愛する方でした。中でも、愛読書はフランクルの書物でした。代表作『夜と霧』で知られる精神医学者、強制収容所に捕らえられ、奇跡的に生還し、その体験を通して野太い希望を書き連ねた人です。◇たとえば、このような言葉があります。「私たちが『生きる意味があるのか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが…私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです」(『それでも人生にイエスと言う』より)◇私たちが「なぜこの苦難が?」と問うのではないのです。人生が、そして神が、「あなたはどう生きるのか?」と問うているのです。そして、Sさんは、その問いに答えるようにして、生きておられました。◇忍耐の日が続きます。だからこそSさんを思い出し、この私もていねいに生きていきたい。そんなことを、今考えています。(平野克己)
○代田教会会報 2022年1月号より
昨日1月21日の報道では、東京の感染者数は1万人近くになりました。その数はさらに増え続けるでしょう。教会員にも、1月に入ってコロナに罹患して入院された方がいました。皆さま、どうぞお大事にお過ごしください。◇日曜日の礼拝は続けます。それでも、礼拝堂においでになる必要はありません。礼拝ライブ配信を通して、それぞれの場所からオンラインでご参加ください。また、礼拝堂においでになる方はお迎えします。「感染しない・感染させない」ことに十分にご配慮の上、おいでください。◇トンガでは千年に一度の大規模噴火が起こりました。教権政治が力を奮い、あちらからもこちらからも悲しい知らせが届いています。今、私たちの神は、この世界に何を問いかけておられるのでしょう? ◇聖書、そして、キリスト教会は2千年の歴史をくぐり抜けてきました。その間、世界に様々なことが起こりました。しかし歴史が証言することは、この世界に何が起こっても惑わされず、たんたんと神に仕え、隣人に仕え続ける神の民を、神が生み出し、導き続けてくださった、ということです。礼拝を通して、そして、聖書の言葉を通して。◇「今、主イエス・キリストは何をしようとしておられるのだろう?」 そのことに心を開きながら、いつもの生活を続けていきましょう。木々も草花も鳥たちも、春を待っています。「たとえ明日世界が終わるとしても、今日、私はリンゴの木を植える」。いにしえの信仰者の言葉です。私たちもそのように生きていきましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2021年12月号より
クリスマスに天使が幾度も繰り返す言葉、それは「恐れるな」という言葉です。天使はマリアに告げます。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。ヨセフに告げます。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。羊飼いたちに告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。◇「恐れるな」という天使の言葉は、今年のクリスマスに、特別な意味をもっているように思います。私たちは恐れています。すでに隣国で起こっているのと同じく、感染症が再び蔓延していくことを。私たちの生活に再び制約が加えられていくことを。この社会の、この世界の、そしてこの私の人生の先行きを。◇私たちが恐れ、足を止め、耳を閉じ、うずくまってしまうなら、天使が、「恐れるな」という言葉に続けて語る言葉を聞き損なってしまうでしょう。◇私たちは、マリアと同じく、恵みをいただくのです。聖霊の力が、私のすぐ近くで、新しいわざを行っています。私が聞く喜びの知らせは、ひと時の気晴らしではなく、民全体に広がっていく大きな喜びです。◇「恐れるな」。天使はその言葉からはじめ、私が今は知らない、新しい出来事、大きな喜びへと招こうとしています。それは、自分の計画や実力の範囲で生きる生き方ではありません。神の計画を思い描き、神の実力に幾度も出会う冒険です。マリアもヨセフも羊飼いたちも、天使の声を聞き、手を引かれ、大切な一歩を歩みはじめました。(平野克己)
○代田教会会報 2021年11月号より
礼拝をささげるとき、日々の生活にはない思いが訪れることがあります。それは、何か明るいもの、何か喜ばしいもの、何かたくましいもの、何か色鮮やかなものが私の視野の向こう側にいて、ゆっくりと私のもとに訪ねてくる、そんな思いです。今見えるもの、今考えつくこと、今計算できることがすべてではない。神が、再び何かを始めようとしてくださっている。そんな感覚です。◇アドベントが始まりました。「待降節」と訳されています。しかし、少し残念な翻訳であるように思えます。アドベントは、降誕祭を待つためにあるのではありません。主イエス・キリストは、《すでに》降誕なさったのです。ですから、まるでキリストが生まれていないかのような心持ちで過ごすならそれは誤りです。◇「アドベント」とは本来は「到来」という意味です。十字架と復活によって、この世界を覆う罪の力、死の力、あらゆるかたちでの暴力に《すでに》打ち克ってくださった方が、《再び》来てくださると約束してくださいました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ14・18)。だから私たちは、暗い時代の中でも、光のもとで、神の子を迎えるようにして生きることができます。◇教会。それはすでに始まり、しかもやがて完成する「新しいこと」を待ち続ける群れです。今の時代、そのことがどれほど必要とされていることでしょう。クリスマスの光を、ご一緒に高く掲げましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2021年10月号より
「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ書6・8)。紀元前8世紀の言葉です。それなのに今なお新しい響きを立てる言葉です。◇私たちは「何が善で」あるかを知っています。それは《正義》です。正しいものを正しいとする心と行動です。そして、《慈しみ》です。もしも正しさだけが主張され、互いが互いを裁くなら、とても息苦しい集団、息苦しい社会になっていくでしょう。そして、《へりくだって》神と共に歩むことです。誰も人の命を軽んじてはなりません。人間は神ではないからです。◇この当然のことが、紀元前8世紀に語られてなお、どうして社会に実現しないのでしょう。家族や友人との関係から、あらゆる組織、さらに国家や国際関係まで、力ある者たちが権力を振り回しながら、弱い人たちを踏みつけることに鈍感になってしまうのです。◇いえ、私たち自身がそうです。慈しみのない正義、正義のない慈しみ、そしておごり高ぶりによって慢心してしまうのです。人間の、そしてこの私の《罪》を深く思わざるをえません。だからこそ、主イエスの正義、慈しみ、ご支配を恋しく思います。◇今日は衆議院選挙日です。この国が、正義と慈しみ、そしてへりくだりの道を歩むことができますように。神はこの国をよく知っておられます。だからこそ、悔い改めを続けながら、神の目に《善》として映る国に、少しでも近づいていけますように、(平野克己)
○代田教会会報 2021年9月号より
この頃、ずっと心に留まっている言葉があります。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。……わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」(エレミヤ29・5、7)。◇紀元前第6世紀。エルサレムの町は新バビロニア帝国に滅ぼされ、多くの住民が異国の地バビロンでの生活を強いられました。それは慣れない生活、しかも不本意な生活の始まりでした。しかし預言者エレミヤは神の言葉を告げます。《生活の変化を受け入れよ。新しい土地に定着し、家を建てて住め。数年かけて実をもたらす果樹を植えよ》、と。◇新型ウイルスによる影響がこれほど長く続くものとは想像していませんでした。すでにこの生活が1年半になったのに、まだどこか落ち着かない思いがします。しかしきっと今は、どっしりと腰を据え、果樹を受ける時なのです。この町の平安を求め、この町のために祈る時なのです。◇それができるのは、神の約束があるからです。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている……、それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29・11)。うつろな心で生きるのではなく、神の平和の計画を思いながら、落ち着いて果樹を植えましょう。今日、数年後のためにできることとは、いったい何なのでしょう。(平野克己)
○代田教会会報 2021年8月号より
「使徒信条」をめぐる説教を8月21日に終えました。一つ一つの言葉に汲みつくすことのできない豊かさがあることを思い知る月日でした。◇日々の生活の中で、「主の祈り」を思い起こすことはあるでしょう。しかし使徒信条を生活の言葉にしているという人はあまり多くないのではないかと思います。もったいないことです。私たちはこんなにすばらしい言葉を使徒たちから受け継いでいるのですから。◇たとえば、朝起きたとき、あるいは夜眠るとき、最後の言葉だけでも心に刻んだらよいでしょう。「私は信じます。罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを」。私たちが積み重ねてしまう罪は、神にゆるされています。また、私たちの人生につけられた傷からさえ、私たちは解き放たれています。欲望に引きずり回され、疲れ、病み、老いていくからだは朽ちて滅びるのではありません。この肉体は復活します。そして、今、私たちは何ものによっても息の根を止めることのできない、しなやかでしたたかないのち、永遠のいのちを呼吸しています。父なる神が、神の独り子イエス・キリストが、聖霊が生きて働き、使徒信条を通して途方もなく大胆な言葉を、この小さな私が語れるようにしてくださったのです。◇いま使徒信条の言葉を雑誌『信徒の友』に連載しています。このコロナの時期にできる、大切なことだと信じながら。ぜひこちらも手に取っていただけると、と願っています。暑い夏、コロナの夏、豪雨の夏でした。皆さまに、慰めを祈っています。(平野克己)
○代田教会会報 2021年6月号より
「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、……なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました」(1テサロニケ2・17)。伝道者パウロは、テサロニケの町にある教会の信徒に向けて、幾度もあなたがたの顔を見たい、ぜひ会いたいと繰り返します(3・6、3・10)。教会にとって、互いに会い、顔と顔を合わせることは欠かせないことなのです。◇多くの方々と礼拝堂でお目にかかることができなくなり、ほんとうに長い月日が流れました。牧師たちの中には、やがて礼拝堂に集わなくても、インターネットがあれば礼拝が成り立つようになるのではないか、という人がいます。とんでもありません! 同じ場所に集い、同じ空気を呼吸し、共に礼拝をささげ、共に聖餐を祝い、共に笑い、共に泣く。それは私たちの信仰生活にとって本質的なことなのです。◇パウロは教会宛にたくさんの手紙を書きました。それはラブレターでした。会うことができないから愛の手紙を書くのです。手紙をやりとりすればするほど、さらに相手に会いたくなるのです。愛とは手を握ること。一緒に食事をし、無言で寄り添うこと。同じ空間にたたずむこと。たわいもないことで一緒に笑うことです。信仰生活は単なる情報の伝達ではなく、愛の空間の中に共に座ることなのです。◇ああ、早くみんなで集うことのできる日が来てほしい。いっしょに歌いたい。いっしょに祈りたい。ホールで昼食を共にしたい。ふだんは抑えているその思いが、時々心にあふれてきます。(平野克己)
○代田教会会報 2021年5月号より
「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14・34)。十字架の前夜、ゲツセマネでの主イエスの言葉です。原語に沿って訳すとこうです。「大きな悲しみがわたしの魂にある、死に至るほどの」。抱えきれない悲しみが魂に及び、死を願うほどだ、という言葉です。◇ペトロ、ヤコブ、ヨハネにご自分の心を打ち明けた主イエスは、父なる神の前に進み出て徹夜で嘆き、祈り続けます。ご自分がのたうつように苦しみ、嘆く姿を3人の弟子たちにあえて見せながら。◇喜びを失う。感謝することができなくなる。そして、父なる神の前で嘆く。それは信仰が足りない結果ではありません。むしろ、そのとき私たちは、父なる神を信頼しているのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」。嘆き悲しみながら「アッバ、父よ」と呼ぶ。私たちの力ではどうしようもないからです。自分の力では死の誘惑から逃れられないからです。私たちが虚無と絶望から逃れるすべは、ただ神に向かって叫ぶことでしかないことがあるのです。嘆きは祈りです。嘆きは神との絆なのです。◇しかし、3人の弟子たちは、目の前でのたうちながら祈っておられる主イエスを前にして眠りこけてしまいました。ほんとうの意味で父なる神につかみかかるようにして嘆くことのできる方、そしてそれほどまでに父なる神への信頼を貫き通されたのは、神の独り子、主イエス・キリストだけです。主イエスは、私たちの叫びをご自分の叫びとしてくださる方です。(平野克己)
○代田教会会報 2021年4月号より
今年の「受難週特別祈祷会」はZoomを用いて行いました。月曜から木曜まで朝6時半と夜7時半、そして金曜は昼2時、それぞれ30分計9回。金曜以外は現職長老が話をしてくれました。参加者は各回40人以上。礼拝出席者の約3分の1にあたります。よく準備された聖書の説きあかしを聞きながら十字架へと向かう主イエスを思う大切な時間でした。◇カトリック教会には「霊操」という慣わしがあります。16世紀の修道士イグナチオ・デ・ロヨラが、霊を整え、鍛える道を方法化したのです。もちろん受難週祈祷会は「霊操」に従ったものではありません。(ロヨラの著書『霊操』によれば、1回1時間を1日5回、それを28日間も繰り返していくのです!)◇それでも「霊操」の楽しさを参加者みんなが味わえたと思います。聖書の言葉を聞き、主イエス・キリストの姿と言葉が魂の隅々にまで行き渡るようにするのです。そのとき、あれこれ考え祈る必要はありません。むしろボーッとしていたほうがよいのです。特別な感動がなくても気にする必要はありません。「わが主イエス」と名を呼ぶだけでもよいでしょう。そうしながら、朝に自分の魂にキリストが働いてくださるスペースを空け、夜に主イエスのいつくしみのまなざしのもとに1日を差し出して眠りにつきます。◇「体操」によって朝に体を伸びやかにし、夜に疲れを癒すように、「霊操」によって朝に魂を柔らかくし、夜に煩いを委ねる。そんな習慣が私たちの生活にも生まれていきますように。(平野克己)
○代田教会会報 2021年3月号より
詩編3編と4編は、眠れぬ者たちのための祈りが記されています。「身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。/主が支えていてくださいます」(3・6)。「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。/主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです」(4・9)。しかも同時に、それぞれの詩編には激し嘆きの言葉が収められています。「主よ、立ち上がってください。/わたしの神よ、お救いください」(3・8)。「呼び求めるわたしに答えてください/……/苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください」(4・2)。神に叫ぶことと安心して眠ることが一つになっているのです。◇ペトロの手紙一にある言葉を思い出します。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」(5・7)。「任せる」という言葉は、原語では「投げつける」という文字。不安と恐れがいっぱいで安眠さえできなくなるなら、その思いの一つ一つを自分から引きはがし、神に投げつけるようにして叫ぶのです。そして、同じ神の腕の中で安心して身を横たえるのです。どうしてそんなことをしてもよいのでしょう。それほど深く、「神があなたがたのことを心にかけていてくださる」からです(5・8)。◇受難節の歩みが続きます。主イエスは私たちの罪を負い、十字架への道を歩んでくださいました。それほど深く、私たちは受け入れられています。このような言葉は神に失礼ではないかと遠慮する必要はないのです。主イエスの赦しをもっともっと信頼していてよいのです。(平野克己)
○代田教会会報 2021年2月号より
◇新型コロナウイルスのために一同で礼拝堂に集えなくなって、もうすぐ1年になります。そして、その間礼拝で聖餐を祝うこともできずにいます。◇この期間、教会それぞれが多様な工夫をしているようです。ある教会では「オンライン聖餐」を行っているそうです。オンラインで礼拝をささげるひとりひとりが、各自でパンとぶどう液を用意し、モニター越しにそれを味わうのです。そのような工夫と熱心はとても尊いことですが、同時に、それが筋道の通ったことであるかどうかについては様々な意見があります。◇代田教会では、聖餐については急ぐことなく、むしろ《待つ》ことを大切にしようと考えてきました。信仰にとって《待つ》ということは本質に関わることなのです。私たちは主の祈りで「み国を来たらせたまえ」と口にするように、神の国の到来を待ちながら生きます。聖餐もそうです。私たちは聖餐を通して、十字架前夜の主の食卓を思い起こすと同時に、神の国で私たちを待っている「盛大なる晩餐会」を待ち望みます。小さなパン、小さな杯は飢え渇きを完全に癒やしてはくれません。私たちはそれをいただくことで、来たるべき時に、全世界の人々と共にいただく和解と平和の食卓をなおさら待ち望むのです。◇長く遠ざかっていた聖餐。しかし、この感染症第三波が収まり再び多くの者たちが礼拝堂に集う日、聖餐を祝いたいと準備を始めています。できることなら復活祭の日に聖餐をいただくことができれば、とひたすら願っています。(平野克己)
○代田教会会報 2021年1月号より
◇「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明される」(1ペトロ1・6)。◇「非常事態宣言」が発令されました。昨年の今頃のような生活は今できません。来年の今頃、私たちの生活もこの社会もいったいどのような状況であるか予想もできません。私たちにこの試練を乗り越えていくことができるのでしょうか?◇聖書はいつも、私たちの心の思いとは異なる不思議なことを語ります。私たちは自分たちの信仰は、弱く頼りないものと思い込みます。だから試練によって《信仰が偽物と証明される》、そんな気分になってしまいます。しかし、ペトロはまったくちがうように語っています。どうしてなのでしょう?◇「信仰」とはピスティスという文字、真実と訳せる言葉です。信仰とは人間の信心のことではありません。神の真実から生じるものなのです。試練によって、私たちは新しく発見するのです。「ああ、神の言葉は真実だった」と。そしてこの神の真実は、試練の中でなおさら輝いていくことでしょう。◇これはペトロの手紙。主イエスを見捨て、自分の信心の化けの皮を剥がされるような体験をした人の言葉です。ペトロはそれまでの自分の信心が壊れるたびに、神の真実が支える信仰を学び続けた人でした。◇私たちが主イエス・キリストを忘れても、主は私たちを忘れることはない。それが、私たちの信仰です。そしてそれは本物です。必ずそのことが証明されていくことでしょう。(平野克己)
○代田教会会報 2020年12月号より
◇「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2・10?11)。◇「恐れるな」。それが、天使がもたらすクリスマスのメッセージです。繰り返し、すぐに忘れてしまう心に言い聞かせてあげましょう。来る日も来る日も、この言葉で1日を満たしましょう。「恐れるな!」◇クリスマスの日に明らかになったことは、この世界の舞台裏では、天の大聖歌隊が歌をうたい続けていて、出番を待ち構えているということです。その時が来れば、重苦しく垂れ込める雲を引き裂いて天使たちが舞い降ります。私たちは、あの日と同じように、天の大合唱隊の歌を浴びるように聞くのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。◇感染症のパンデミックによって、礼拝堂でさえ、声に出して歌うことを控えなければならない降誕祭礼拝、オンラインで祝うクリスマスイブ礼拝になりました。世界中の教会が同じ忍耐を味わっています。しかし、世界を覆っているのはウイルスだけではありません。いえ、もっと広く、もっと大きな世界が、私たちを取り囲んでいます。それは、あの天の大合唱隊です。この地上で、飼い葉桶の中に静かに生まれた御子イエス・キリストを指差しながら歌う天使たちに私たちは取り囲まれています。いかなる状況も、私たちが心のなかで歌う、クリスマスの歌を妨げることはできません。「私の魂よ、恐れるな!」(平野克己)(平野克己)
○代田教会会報 2020年11月号より
◇11月19日から一泊二日で、滋賀・近江八幡に榎本恵牧師を訪ねました。三浦綾子の小説『ちいろば先生物語』で知られる、榎本保郎牧師の長男。超教派の祈祷運動「アシュラム」の主幹牧師です。恵牧師は私と同い年。52歳で生涯を終えた父の志を引き継ぎ、日本全国10箇所以上に赴き、しかも台湾・ブラジル・米国まで足を伸ばして祈祷運動を展開しています。◇小さな集会で聖書の話をしてきました。しかし彼が招いてくれた最大の目的は、90年前の洋館を改装した「シメオン黙想の家」を私に紹介するためでした。◇近江八幡は、名建築家であり近江兄弟社の創業者としても知られる信徒伝道者、ウィリアム・ヴォーリズの町としても知られます。この「黙想の家」はヴォーリズの弟子が自宅として設計したもの。アールデコ様式の創意に富んだ見事な建築です。完成後間もなく、家のあるじは42歳で死去したそうです。その建物が祈りの家として見事によみがえっていました。◇先人の信仰の夢を引き継ぎ、しかもそこで次世代へと続く夢のために働く榎本牧師と夜遅くまで語りあい、少し疲れていた魂をすっかり元気にされて帰ってきました。あの黙想の家を皆さんと訪ねることができたら、どんなにすてきなことでしょう。◇閉塞感の漂う日々です。けれども、ご一緒に次世代へと続いていくよい夢を見たいと願います。宣教師ヴォーリズのように。ちいろば牧師のように。恵牧師のように。もしも信仰が与える夢を描くことを忘れたら、キリスト者になった甲斐がありません。(平野克己)
○代田教会会報 2020年10月号より
◇「愛する人たち、あなたがたに勧めます。……異教徒の間で立派に生活しなさい」(1ペトロ2・11-12)。「立派に生活しなさい」。原語では「美しく生活しなさい」という言葉です。主イエスの美しさに倣って生きよと、ペトロは勧めます。◇10月18日に聖徒の日礼拝をささげました。当日配布した「代田教会関係逝去者」には248名の氏名。私もこの教会で100名を超える方々を皆さんと一緒に見送ってきたことになります。葬儀では式次第に「故人略歴」を記すことにしています。故人の経歴を説教で詳細に紹介することはふさわしくありません。そこで、ひとりひとりの大切な人生の軌跡を記録に留めたいとの願いからです。◇ある葬儀の準備の時、教会員である遺族から尋ねられました。「誕生・洗礼・結婚・逝去、それだけを記すのではいけませんか? 母はただ妻として母として生きてきたのです」。その言葉を忘れることはありません。◇「美しく生きる」とは特別な経歴を生きることでも、傷も汚れもない生涯を送ることでもありません。主イエスのように、愛のために傷つき、泥まみれになり、自分の命を神と人のために用いていただくことを祈りながら生き、死んでいくことです。主イエスは馬小屋に生まれ十字架で死んだ方。私たちのためにへりくだり、私たちの罪を負い、命を注いだ方。その姿を神は「美しい」と呼んでくださるのです。そして、父なる神は光を注ぎ、復活の道をたどらせてくださいました。◇不器用に、たどたどしく、それでも「美しく」生きていきましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2020年9月号より
◇「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」(イザヤ43・10-11)。歴史の変動期、過去と現在の落差に意気阻喪する民に、神は視線の変更を求めます。歴史の断絶。それは、神が新しいことを行う《時の狭間》なのです。◇このコロナの時期、代田教会で神は新しいことを始めておられます。礼拝ライブ配信が始まりました。これで海外にいても、病院のペッドでも、寝たきりになっても、教会礼拝に加わることができます。日髙伝道師を留学に送り出しました。2人の新長老が生まれました。神は忙しく働いておられます。◇さらに10月中、長谷川美保先生の「教会音楽教師就任式」を行う予定です。◇私たちの教会の特徴の一つは、豊かな音楽の賜物が与えられていることです。多数のオルガン奏楽者(しかも3人は20歳前後の若者)、聖歌隊、ハンドベル。さらに器楽奏チームと若者の合唱隊。実に多くの人たちが礼拝を音楽で支えています。そしてこの数年のジャズ夕礼拝。これも日本では最新の取り組みです。長谷川先生にはその全体のディレクションをしていただきます。◇教会音楽には専門性が必要です。欧米では、カントル(教会音楽教師)のいる教会は少なくありません。音楽の賜物をさらに豊かにして、礼拝を支える役割です。私たちの教会では、予算上、パートタイムの音楽教師とならざるを得ません。それでも長谷川先生は喜んでこの役をお引き受けくださいました。神からの大きなプレゼントです。(平野克己)
○代田教会会報 2020年8月号より
◇「戦いは終った。……今朝の礼拝には、文字通りもはや生還を期しがたかった人々が集まっている。中には戦死、戦災死されたかたもある。一昨日もS君の消息不明の悲しむべき内報があった」。◇信濃町教会の福田正俊牧師が、75年前、敗戦2か月後に語った礼拝説教「新生」の冒頭です。幾度でも読み返したい説教です。(『福田正俊』日本の説教Ⅱ第8巻、日本キリスト教団出版局)。◇福田牧師は語ります。「キリスト者の生活は常に出発点に出直すことである。……戦争より出てきたわれわれ、再び生かしめられているわれわれは、本当のために本気に生きねばならぬ。実際『我がために、己が生命を失ふ者は、之を得べし』である。これは厳しい。しかし神の国の蔭にすぎないにせよ、ここにのみ人間の真の新生がある。私も戦争中の罪過を赦されて生きたいのである」。戦後すぐ、厳しい視線で教会と自分を見つめ、深い悔い改めの中からまさしく「本当のために本気に」なって、福田牧師は語りかけます。◇ウイルス感染症の拡大が続きます。酷暑の夏。さらに世界中からニュースが飛び込み、時代の先行きが案じられます。しかし、私たちに何より大切なことは、不安と恐れに引きずり回されることでも、また、不安と恐れから逃れて小さな憩いの部屋に閉じこもることでもありません。「常に出発点に出直すこと」、キリストに立ち帰ることです。「本当のために本気に生きる」には、今からでも遅くはない。幾度でも「出発点から出直す」恵みが私たちに与えられているからです。(平野克己)
○代田教会会報 2020年6月号より
◇「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133・1)。6月21日、皆さんを約3か月ぶりに礼拝堂に迎えることができました。うれしいことでした。私たちキリスト者は独りで生きているのではなく、共に旅を続ける仲間がおり、共に祈り、共に歌うことができる。それはなんと励ましに満ちたことでしょう。◇それは当然のことではありません。私たちの教会にも長く施設や病院で過ごしている人がいます。在外生活が長くなった人がいます。様ざまな理由で礼拝から遠ざかっている人もいます。ペトロもパウロも、牢獄の孤独を知っている人たちでした。そのような人たち見れば、礼拝に集うことができるのは、奇跡に等しいことなのです。◇主イエス・キリストが弟子をおつくりになるとき、「お前は独りで木の下で瞑想していなさい」とはおっしゃいませんでした。いつもひとりの前に立ち止まり、愛のまなざしを注ぎ「わたしに従いなさい」と呼んだのです。そうして、ひとりひとりを呼び、弟子たちの群れを形づくりました。◇そして、そこで繰り返されたのは、「互いに仕え合いなさい、愛し合いなさい」という言葉でした。私たちが愛に生きるためには、どこかで練習をしなければなりません。弟子たちの群れこそその場所だと、主イエスはお考えなのでしょう。◇再び礼拝堂に集まれなくなる日が、それほど遠くなく来ることが予想されています。ウイルス感染の第2波が来るからです。だからこそ、この時、共に集える時を大切にしましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2020年5月号より
◇新型コロナウイルス感染症のため、教会の活動を制約しながらの歩みが続いています。東京では感染者数が減少し、日曜日に教会堂に集える日が確実に近づいています。しかし今後も決して短くはない期間、代田教会でも以前とは異なる様々な配慮が必要になっていくことでしょう。◇このウイルスの感染源となった武漢の町の匿名の牧師が、世界中のキリスト者に宛てた手紙が公開されています。そこにこうあります。「まず、キリストの平安が私たちの心を支配しますように。キリストはすでに私たちに平安を与えてくださっていますが、それは災いと死を免れることを意味するのではなく、むしろその真ん中にあっても平安だということです。キリストが既に病や死に勝利してくださいましたから。もしこの平安がなかったなら、疫病を恐れ、死に直面して希望を失うことでしょう」。◇私たちの幸いは、災いと死よりも強いキリストの平安をいただいていることです。安堵することに、今のところ教会員が感染したという知らせはありません。そのことを素直に感謝しています。しかしそれだけでよいのだろうか、と思います。キリストは死の家を訪ね、当時は感染症として恐れられていた病の人に手を触れました。弟子たちはその足跡に従いました。◇この出来事で社会のひずみはさらに大きく、世界の医療貧困地域での悲しみはさらに長く深くなっていくでしょう。私たちの信仰が問われているように思います。祈りましょう。今、私たちの視野に入っていない人々のために。(平野克己)
○代田教会会報 2020年4月号より
◇東方教会に属する日本ハリストス正教会では、復活祭の日にこのような挨拶を交わすのだそうです。「ハリストス復活!」、「実に復活!」。信徒のひとりが「ハリストス(キリストのこと)復活!」と声を掛けると、喜びをもって「実に復活!」と言葉を返す。復活の祝いの日、その挨拶が礼拝堂を満たすのだそうです。◇今年の復活祭は、代田教会の記憶に刻まれる忘れられない日になりました。新型コロナウイルス感染症の拡大により、ついにその日から、教職3人とごくわずかな奉仕者たちでささげる礼拝となりました。聖餐を祝うことも、予定していた洗礼を行うこともできませんでした。◇当日はインターネットの同時中継を試みました。驚くことに約100名の参加者が、中継を見守りました。ところが奉仕者の懸命の努力にもかかわらず、音質がよくありませんでした。パソコンやスマートフォンの小さな画面をのぞき込み、懸命に耳をそばだてた人たちも多かったろうと思います。◇しかしある方が、すぐにこのような感想を送ってくださいました。「本当にすばらしい時間、すばらしい礼拝だった。復活を新しく、味わい深く体験した」と。◇復活。それは世界史の中で主イエス・キリストだけに起こったことです。私たちにとって、復活はまだおぼろにかすんでいます。それでも、耳をそばだてていると向こう側から声が聞こえてくるのです。「キリスト復活!」。そして、私たちもまた、それに答えるのです。「実に復活!」。復活節の喜びを心より申し上げます。キリスト復活!(平野克己)
○代田教会会報 2020年3月号より
◇教会員をご自宅に訪ねて、自宅で小さな礼拝をいっしょにささげました。その週に、大切な手術を控えていたからです。その方の愛唱讃美歌を大きな声で歌いました。◇「静けき河の岸辺を過ぎ行くときにも、憂き悩みの荒海を渡りゆくときにも、こころ安し、神によりて安し」。旧讃美歌、520番です。4番では、こう歌います。「大空は巻き去られて、地は崩るるとき、罪の子らは騒ぐとも、神による御民は、こころ安し、神によりて安し」(『讃美歌』520番)。いかなる憂いや悩みがあっても、たとえこの世界が滅びていくときでさえも、神がくださるこころの平安を私たちから奪い去ることはできない。そう、歌ったのです。堂々たる歌です。しかし、そう歌いうる堂々たる信仰を私たちはいただいています。◇新型コロナウイルス感染症により世界全体が揺れ動いています。3月中、代田教会も礼拝以外の集会を中止にし、代田幼稚園も休園措置をとらざるをえませんでした。こんなことが起こるなど、想像もしていなかったことでした。健康や感染の配慮をし、日曜日に礼拝堂に集うことができず、淋しい思いを味わっておられる方も多くいます。◇しかし、こんな日々だからこそ、こころに讃美歌を繰り返しながら、日々を過ごしていきましょう。洗礼を受けた者たちは、罪の赦しをいただき、恵みだけをいただいています。◇先の讃美歌では3番でこう歌います。「うれしや十字架の上に、わが罪は死にき。救いの道歩む身は、ますらおのごとくに、こころ安し、神によりて安し」(平野克己)
○代田教会会報 2020年2月号より
◇婦人会のために用意した資料を土台にした書物、『祈りのともしび』(日本キリスト教団出版局)が刊行されたのは2015年。代田教会の皆さまだけでなく、日本中のキリスト者の枕元にこの本が置かれ、眠る夜、目覚めた朝の祈りの導きになれば、との思いからでした。私自身、この本を身近に置いています。そして幾度も本を開きます。◇あらためて驚くことは、父なる神への祈りだけではなく、御子イエス・キリストに語りかける祈りが多いことです。編集の過程では気がつきませんでした。たとえば、次の祈りです。「イエスさま、十字架の苦しみにおいて、人びとに責められ、悲しみの人となられたイエスさま、わたしは神さまの美しさと優しさに輝く、あなたの聖なるみ顔をお慕いします」(リジューのテレジア)。このような祈りもあります。「愛するイエスよ、わたしがどこへ行こうとも、あなたの香りが広がるよう、わたしを助けてください」(J・H・ニューマン)。◇父なる神のお姿を私たちは知りません。しかし、御子イエスについては、福音書を通して知ることができます。はっきり思い浮かべることのできる方、私を愛し、ゆるしてくださる方、主イエスを思う。なんてすてきな時間でしょう。◇「ああ、キリスト・イエスよ、すべてが闇に閉ざされるとき、そして、自分が弱く、寄る辺なく思えるとき、どうか、感じさせてください、あなたのご臨在を、あなたの愛、あなたの強さを」(ロヨラ)。もっともっと主イエスと親しくなりたい。その思いが、今日の私を支えます。(平野克己)
○代田教会会報 2020年1月号より
◇昨年11月、ローマ教皇フランシスコが来日しました。私たちプロテスタント教会では、彼の言葉をそのまま合言葉にすることはありません。しかし、そのことがとても残念に思えるほどすばらしい説教をこの地に残していきました。◇たとえば、東京ドームで行われたミサでの説教です。「イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされたのです」。「いのちの福音……は、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある野戦病院となることです」。◇教会は野戦病院であれ! なんと率直で、私たちに必要な言葉でしょう。この街に傷つき倒れた人たちがたくさんいます。そして、教会に集う私たち自身もまた傷を負いながら生きています。◇「世俗の姿勢…(そして)利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展をはばむのです。孤立し、閉ざされ、息ができずにいるわたしに抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち、これしかありません」。分かち合い、祝い、共に生きること。それは利己主義の生き方とはまったく異なります。そこに教会がいまこの地に存在する意味、そして使命があります。(平野克己)
○代田教会会報 2019年12月号より
◇「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)。主イエスの説教の第一声です。主イエスの宣教活動はこの言葉から始まりました。そこに、主の説教のすべてが集約されているということでしょう。◇「悔い改める」と訳されている言葉は「向きを変える」という文字。神の子イエスが大きな手を広げて、「向きを変え、わたしのもとに帰って来い」と呼んでくださるのです。「時が満ち」、父なる神が御子をこの世に遣わしてくださいました。「神の国」、神の恵みに満ちた手、慈しみに満ちた手が見えたのです。私たちは向きを変えさえすれば、いつでもその御手の中に戻れるのです。そこに喜びの知らせ、「福音」があります。◇あなたはそして私は、いったい今、どこに向かっているのでしょう。向かう先に何が見えているでしょう。ただ墓穴という袋小路を目指して歩んでいないでしょうか。行く先に、主イエスのお姿が見えていますか。もしも見えていなければ、私たちは心の向き、人生の向きをグルッと変えなければなりません。◇「帰って来い」。クリスマスに私たちを迎えてくださる主イエスが、私たちを招き続けていてくださいます。主イエスがおられる場所こそ、私たちが自分のいのちを喜び、祝う場所であるからです。◇御子イエス・キリストが、私たちのためにお生まれくださいました。そして、私たちの行く先、死を超えたところで、主イエスが再び来て、私たちを迎えてくださいます。クリスマス、おめでとうございます。(平野克己)
○代田教会会報 2019年11月号より
◇神は《上から》この世界を支配しようとはなさいませんでした。神が独り子をこの世にお送りになったとき、イエス・キリストは宮殿でも神殿でもなく、馬小屋で生まれました。私たちの主イエスは、自分に洗礼を授けたヨハネが捕らえられ殺されたときも、ヘロデ邸に乗り込むことはしませんでした。復活後、ご自分に死刑判決を下したピラトの前に現れたということもありません。主は、その生涯をただ、ひとりひとりを愛することに費やされました。◇私たちから見れば、影響が乏しく、効率も悪く、あまりに非力なやり方であったように思えます。そもそも主イエスが神の言葉を宣べ伝えたのは1年、長くても3年のことでした。しかし、その間、主がひたすら打ち込まれたことは、弟子の共同体である教会の基礎を築くことでした。しかもそれは、理想的な群れではありませんでした。ペトロはイエスを捨て、ユダは裏切りました。最初の伝道者パウロもまた、混乱する教会に手紙を書き続けなければなりませんでした。◇それでも、ゆっくり時間をかけながら、私たち一人一人が悔い改め、癒され、変えられていくことでしか、ほんものは現れない。そのことを神が教えてくださっているように思います。神は本気で《下から》、この世界を変えようと決心しておられるのです。◇あちらでもこちらでも、《上から》社会を支配しようとする力を見せつけられる1か月でした。このような時代であるからこそ、私たちは《下から》神と共に歩み続けていきたいと思います。(平野克己)
○代田教会会報 2019年10月号より
◇(「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある」(詩編37・37)。9月、敬老の祝いのために用意したカードのうち、女性方に記した言葉です。私が選んだ言葉ですが、今も私の心に動き続けています。◇この言葉に先立ち、詩人は語ります。「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た」(35節)。神に逆らいながら生きる者たちが数を増し、繁栄を極めているのです。しかし、だからこそ、「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ」と勧めるのです。◇「無垢であろうと努め」ることのなんと困難なことでしょう。私たちは傷つけ汚されれば、同じ傷と汚れを相手に与えようとします。「まっすぐに見る」ことのなんと難しいことでしょう。私たちは疑いの目で斜めから見たり、さげすんで見下ろしたり、うらやんで見上げたりします。だからこそ、私たちは、主イエスの無垢さを、主イエスのまっすぐなまなざしを自分に写しとることを願いながら生きていくのです。幾度も失敗しながら。それでも決してあきらめずに。そこに約束の言葉が続くからです。「平和な人には未来がある」。汚れた魂で明日を迎えられません。疑い、さげすみ、うらやむ道に明日はありません。神の国を待ち望むようにして、私たちは歩み続けます。◇教会で共に歩む高齢の信仰者たちに、この無垢さを、まっすぐなまなざしを見ることができます。私たちもあの方のように生きることができる。そこに私たちの希望があります。平野克己)
○代田教会会報 2019年9月号より
◇昨年、洗足教会洪徳憙牧師の紹介で、韓国ムハク教会聖歌隊を迎えてチャペルコンサートを行いました。この聖歌隊が今年も来てくださいます。10月15日(火)午後4時半開演です。◇昨年のあの日の感動をどう伝えたらよいでしょう。歌声のすばらしさは言うまでもありません。わたしが心をうたれたのは、聖歌隊の方々の現実的な愛でした。大部分の曲を楽譜なしで、日本語で歌ってくれました。何という努力でしょう。しかも、予定のプログラムが終わり、多くの聴衆が会場をあとにしたのち、特別な祈りの必要な人を見出すとそのひとりのために聖歌隊が歌いはじめました。心を深く揺さぶられる光景でした。◇日韓関係が悪化しています。韓国では反日デモが繰り返され、不買運動が広がり、日本に渡航するというだけで批判的な目を周囲から向けられると聞いています。日本でも、悲しいことに、韓国への敵対心をあおる言葉が渦巻いています。この聖歌隊の来日そのものに、現実的な愛が表れています。◇「いかに幸いなるかな、平和を実現する人びとは」。それが、この聖歌隊が掲げた、今回のチャペルコンサートのテーマです。ごいっしょに歌声に耳を傾けることで、この礼拝堂に平和を実現しましょう。そして、キリストがもたらしてくださった平和が私たちの生活の場に、東京に、そして、日本と韓国の間に広がることを祈りましょう。◇わたしたちもまた、彼らの呼びかけに応えて、同じ主の言葉を繰り返しましょう。「いかに幸いなるかな、平和を実現する人びとは」(平野克己)
○代田教会会報 2019年8月号より
◇日韓関係の悪化、香港で続くデモのニュースを毎日聞きながら、この8月を過ごしています。厳しい夏の気候にどこかが壊れた地球環境を感じるように、政治の世界もまた、どこかが壊れてしまっているようです。「平和を尋ね求め、追い求めよ」。今年度の教会聖句が、大きな響きを立てて心に迫ってきます。◇《グローバリズム》という経済用語が流行するより前から、教会には、世界を言い表す独自の言葉があります。それは《カトリック》という言葉です。主イエスが「福音を地の果てまで宣べ伝えよ」と命じられたとき、国境や言語、民族や文化を超えた、世界大のネットワークづくりが始まりました(カトリックとはそもそもは「公同」の教会という意味です)。パウロはだからこそ、「キリストこそわたしたちの平和」と語りました。教会こそ、分裂と分断を繰り返す世界に蒔かれた平和の種なのです。◇「北東アジアキリスト者和解フォーラム」を韓国・中国・米国のキリスト者と共に立ちあげて6年になります。この会に皆さんと一緒に参加することはできません。それでもその実りとして、一昨年は米国人クリス・ライスさんを、昨年は香港の張文鳳牧師を礼拝に迎えました。今年は11月に韓国からキム・ジョンホさんを説教者に迎える予定です。わたしたちの兄弟姉妹、神の民は世界中に広がっています。どうしてそこに住む人々を憎むことができるでしょう。◇世界のあらゆる場所に、キリストに仕え、平和のために生きる仲間たちがいます。わたしたちもここに、平和の群れを形づくり続けましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2019年6月号より
◇神学校を卒業して30年になりました。20名に満たない小さなクラス。よく語りあった仲間たちだったように思います。卒業と同時に様々な場所に散らされ、それぞれが忙しくなり、集まることもなくなりました。◇卒業後間もなく、気を利かせた有志がクラス会報を作ってくれました。タイトルは《ACTS29》。使徒言行29章という意味です。使徒言行録は28章で終わっています。そこで、使徒たちの思いを継ぎ、聖霊に導かれ、第29章を記していこう。そんな志が込められた名前です。◇あれから30年。記念クラス会を開く予定はありません。それでも、いつかまた皆で集まりたいな、と思います。それは困難を味わい、苦闘し、あるいは過ちを犯してしまった仲間たちの様子を耳にするからです。伝道は《旅》です。予想外のことが起こります。罪を思い知らされます。生活の危機にさらされます。パウロが、伝道の旅の「苦難、欠乏、行き詰まり……」を列挙するように(2コリント5・4以下)。そして、わたしも、わたしなりの痛みと罪の悲しみを知りながら30年を歩んできたように思います。◇しかしだからこそ、若い時よりもなおいっそう《聖霊》を恋い慕うようになっていることに気がつきます。自分の限界、自分の罪の根深さを知れば知るほど、聖霊に助けていただかなければなりません。《聖なる精神=ホーリー・スピリット》に支配していただかなければなりません。◇前牧師北島敏之先生の説教に耳を傾け、そんなことに思いをめぐらす聖霊降臨祭でした。「来たれ、聖霊よ!」(平野克己)
○代田教会会報 2019年5月号より
◇いつも礼拝の中で主の祈りを祈ります。わたしたちの礼拝では冒頭近くで祈りますが、さらに古くからある教会の伝統では、礼拝の最後のほうで祈ることが多いのです。なぜならこの祈りは礼拝堂ではなく、わたしたちの日常の生活で祈るほうがふさわしいからです。エールを交わし合ってグラウンドに飛び出していく運動選手のように、礼拝者は《主の祈り》を祈り、《祝福》に送り出されて、週日の生活に飛び出していきます。◇「み名があがめられますように! み国が来ますように! み心が行われますように!」 この祈りが、わたしたちの心にいつでも生きているなら、一週間は変わるでしょう。週日の生活で、わたしたちが派遣されて生きる場所で、神がわたしたちを用いてみわざを行ってくださることをわたしたちは願います。「日毎の糧を与えたまえ!」と祈るなら、食事がまったく異なって目に映るでしょう。「罪をゆるします!」と言葉にするなら、わたしたちの言葉遣いまで変わるでしょうし、「罪をゆるしたまえ!」と祈り続けるなら、この世のただ中に勇気をもって足を踏み入れていくことができるでしょう。◇そして最後に祈ります。「救い出したまえ!」 それは《助けてください》という意味です。神はわたしたちが主の祈りを祈りながら生きる道を助けてくださいます。助けてください!と神を呼び続けるなら、わたしたちはもっと神の力を間近に目撃し続けるでしょう。◇主の祈り。それはこの世界を歩く、わたしたちキリスト者の行進曲です。(平野克己)
○代田教会会報 2019年4月号より
◇4月14日に新年度第1回定例長老会が開かれました。今年度の特徴は12人中6人が、初めて代田教会で長老に任じられた方であることです。昨年度3名、今春また3名が新しく長老に任職されました。◇第1回定例長老会は、8名の方々との面接から始まりました。洗礼志願者4名、転入・転入会志願者4名。ひとりずつていねいに会い、さらに4月28日開催予定の総会準備もあり、会議の終了は夜8時近くになりました。新しい長老、そして絶えなく生み出されている新教会員。この群れに聖霊が注がれているのを目に見る思いです。◇神が生きておられる。それは、わたしたち人間の予定が乱されるということでもあります。ルカ福音書はこんな話しから始まります。祭司ザカリアが聖所で香を焚いていた。その時、主の天使が香壇の右に立った。そしてルカは、少し愉快な言葉を付け加えます。「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」(1・12)。不思議な言葉です。主の天使が聖所に現れるのは当然です。それなのに、祭司その人は、そのことが念頭になかったのです。だから、不安になり、礼拝に手間取り(1・21)、ついに話すこともできなくなりました。◇教会もまた、突然主の天使が降り立つ場所です。そして、わたしたちの予定がひっくり返されるのです。実に愉快なことだと思います。いったい神さまは、新しい人びとをとおして、何をなさろうとしておられるのでしょう。この年度、神の手によって、いったい何が始まるのでしょう。(平野克己)
○代田教会会報 2018年12月号より
◇「中間時」という言葉があります。教会で大切にされてきた言葉、みなさんにもぜひ記憶していただきたい言葉です。◇2000年前の降誕の夜、神の御子は人となり、《すでに》来てくださいました。しかしこの世界は、罪の力がなお強く、分裂、暴力、死が支配しているかのようです。それでも、主イエスは、約束してくださいました。「然り、わたしはすぐに来る」(黙示録22・20)。キリストが再びおいでになるその時、世界すべてが神の支配のもとに置かれます。それを教会は「主の日」、あるいは「終わりの時」と呼びました。しかし、この終わりの時は《いまだ》来ていません。◇クリスマス。それは、年中行事ではありません。クリスマスイブ礼拝や降誕祭礼拝の日に終わるのではありません。2000年前から、クリスマスはずっと始まっています。そして、やがて「大いなるクリスマス」を迎える日が来る。主イエス・キリストが再び来てくださる日が来るのです。◇わたしたちはこの2つの時の「中間時」に生きています。クリスマスとは、主イエス・キリストが《すでに》来ていることを忘れないようにするための祝いであり、同時に、《いまだ》来ていない再臨のキリストを渇望する祝いです。◇「まるで、キリストがお生まれになっていないかのような心で生きることをやめよう!」わたしが繰り返してきた言葉です。《すでに》この世界を、キリストが生きてくださいました。そして、《いまだ》完成されていないほんとうの喜びの日を待ちながら、わたしたちは生きています。(平野克己)
○代田教会会報 2018年11月号より
◇教会暦では、新年は待降節(アドベント)第1主日から始まります。今年は12月2日(日)です。◇この日から、礼拝開始を告げる鐘の音を定時の10時30分ではなく、その5分前、10時25分に鳴らすこととしました。礼拝開始を待つこころをつくる時間をこれまで以上に大切にしたいと考えてのことです。◇礼拝が始まるまで、皆さんは何をしておられるでしょう。祈ることもよいでしょう。過ぎた一週間を振り返ることもよいでしょう。わたしは、というと、この時間を祈ることもせず、礼拝堂の外での生活を思い出すこともせず、ただ十字架を見上げながら《ボーッ》とするようにしています。十字架に向かい、心を空っぽにするのです。できるだけあのこともこのことも忘れながら、神を待つこころをつくるのです。「霧のような憂いも、闇のような恐れも、みなうしろに投げ捨て」て、こころを高く挙げるのです。父なる神が、「心を高くあげよ!」と命じておられるからです(『讃美歌21』18番)。◇5分前の鐘が聞こえたら、礼拝堂の外にいる人は、どうぞ中に入ってください。礼拝堂の中でも、あれこれ話をしたいこともあるでしょう。それでも、神の前で、神からの《招詞》の言葉が発声されるのを待ちながら、5分も十字架を見上げて《ボーッ》とできる。それはそれは、豊かな時間です。ぜひ試してみてください。◇長く続いた習慣の変更です。慣れるまで、少し時間がかかるかもしれません。それでも、きっと礼拝がより豊かなものとなっていくことでしょう。(平野克己)
○代田教会会報 2018年10月号より
◇この9月から、主日礼拝でわたしが説教するときに、旧約聖書のホセア書からマラキ書まで、《12小預言書》と呼ばれる部分を取り上げはじめています。神学校を卒業して30年近くなりますが、わたしにとってはじめてのこと、みなさまの多くにとってもはじめてのことかもしれません。◇主イエス・キリストの、そして伝道者パウロの心に常に生きていたのは、旧約聖書の言葉です。また、代々の信仰者たちを生かしてきたのも、預言者たちが語る短いフレーズ、鮮やかなイメージでした。預言者たちは、あるときは涙を流しながら、あるときは恋人を口説き落とすように柔らかな言葉でわたしたちに語り続けています。◇彼らが声を枯らして叫んだのは、《まことの神を礼拝して生きよ》というメッセージでした。神の民がエジプトを脱出したのは、奴隷状態からの自由を得させるためだけではなく、神への礼拝をささげさせるためでした(出エジプト5・1)。まことの神への礼拝を忘れるとき、欲望が人間の魂を食い尽くします。《自己実現》とか《経済的繁栄》という大義名分のもとで、神さえも自分の夢の実現に従わせようとしてしまいます。恐ろしいことです。その行く先は滅びです。◇神への礼拝を忘れたこの社会のただなかで、預言者の言葉に耳を傾け続ける。地の塩、世の光として、神の真実の前に背筋を伸ばして立つ人間として生きる。そこに、わたしたちのほんとうの喜びがあります。期待し、祈りながら、礼拝をささげ続けましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2018年8月号より
◇炎暑、酷暑、ひどい暑さの夏でした。それでも、この文章を書いている今日、風が爽やかになりました。秋が近づいています。夏がどれほどひどくても、わたしたちに耐えることができるのは、その暑さはいつか過ぎ去ることを知っているからです。◇主イエスは言われます。「空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」(マタイ16・3)。この時代、そして、わたしたちの人生は明るい方へと向かっています。だから、わたしたちには忍耐することができます。◇「終末」という言葉は、元は神学の用語です。それは破局と滅亡という暗い将来を指す言葉ではありません。キング牧師は、閉ざされた時代のただ中で繰り返し語りました。「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ」(アモス5・24)。そして、神ご自身が、ヨハネの黙示録を通して語られます。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21・3-4)。最も新しいことが、歴史の行く先で、そして人生の終点で、わたしたちを待ち構えているのです。◇「早く秋が来るように」。この夏、幾度そう思ったことでしょう。それと同じく、そしてそれよりもさらに真剣に、わたしたちは祈り続けます。「早くみ国が来るように」。そのとき、混沌とした日々の中にも「時代のしるし」を見分けることができるようになるでしょう。(平野克己)
○代田教会会報 2018年8月特集号より
◇今年5月、京都で開かれた「第5回北東アジアキリスト者和解フォーラム」に、米国デューク大学からハワーワス教授を迎えました。2003年、研究休暇としてデューク大学に送り出していただいて以来、その1年の実りがなお続いています。和解フォーラムの始まりも、ハワーワス教授の訪日も、あの研究休暇に起因しています。◇かつて米国では、ラインホルト・ニーバーという神学者が大きな影響を与えました。彼は「キリスト教現実主義」という名のもとで、次の主張に裏書きを与えました。「もしもこの世界に正義を求めるなら、いつでも誰かを殺す用意をしておかなければならない──ただし、たくさんではなく、できるだけ少ない数を──」。しかしハワーワスは、こうした見解には決定的に欠けている視点がある、それは「主イエス・キリストは何を語られるか」という視点だと指摘します。◇いったい現実とは何でしょう? 暴力で屈服させ、必要があれば相手を殺害することが現実なのでしょうか? あるいは、主イエス・キリストが語られたように、世界は必ず一つになる日が来る、神の国はすでに始まっているし、赦しと公正と平和が地に満ちる日が来る。それが現実なのでしょうか? いったい寝ぼけているのはどちらなのでしょう? ◇ハワーワス教授は語られました。「教会がまことの教会となっていくこと、それこそがこの世界への最大の貢献だ」。その言葉が心に鳴り響き続けています。教会。それは、神の国の到来を告げ知らせる群れです。(平野克己)
○代田教会会報 2018年6月号より
◇5月19日、英国ハリー王子とメーガン・マークルの結婚式が行われました。その結婚式に説教者として招かれたのは、米国聖公会の主教であるマイケル・カリーさんでした。英国の王室の結婚式に米国から牧師を迎えることも異例、しかもアフリカ系アメリカ人を迎えることも異例でしょう。その抜擢に答えるようにして、見事な説教をしました。◇彼は、キング牧師の言葉を引用することから説教を始めています。「われわれは愛の力を見出さなければならない。愛の贖いの力を。そのようにするとき、われわれはこの古い世界から新しい世界を造り出すようになるのだ。愛。愛こそ唯一の道なのだ」。贖い。自己犠牲をもって相手を解き放つ、という意味です。カリー牧師は、結婚する2人にだけ語りかけませんでした。むしろ、結婚式に集う人びと、そして、世界中の人びとに向けて語っているようでした。結婚式などというものは一時期のお祭りなのであり、この世界の気晴らしなのだと思い込む者たちに「愛の力」を語るのです。◇「思い描いてください、愛こそが道である世界を、愛こそが道である政府や国々を、愛こそが道であるビジネスや商売を。思い描いてください、このくたびれた古い世界で、愛こそが道であるときを。……そのとき、空腹のまま床に就くこどもたちはこの世界にいなくなるでしょう。貧困は過去の歴史になるでしょう。大地は聖所になるでしょう」。◇インターネットで全訳を読むことができます。ぜひみなさまに読んでほしい説教です。(平野克己)
○代田教会会報 2018年5月号より
◇第5回「北東アジアキリスト者和解フォーラム」が、5月28日から6月2日まで京都で開かれます。◇2013年秋、デューク大学で学んでいた時、家族の一員として迎え入れてくださったのはクリス・ライスさん。その時、彼は同大学神学部の「和解センター」の所長でした。以来親しく歩み、このフォーラムを一緒に運営してきました。アジア諸国との和解に尽くされた代田教会員隅谷三喜男兄の仕事をほんのわずかでも引き継ぎたいと願ってのことでした。◇今年は日本・韓国・中国・米国、さらに台湾・香港・インドネシアから90名が集います。わたしたちの願いに応え、スタンリー・ハワーワスという米国を代表する神学者も高齢の無理を押して来日します。徹底的な平和主義を貫き、米国の教会と社会に警鐘を打ち鳴らし続けている方です。◇フォーラムでは参加者が寝食を共にし、礼拝し、聖書を読み、互いの言葉に耳を傾けます。国境も言語も教派も超えた集いに、世界の主、和解の主、イエス・キリストを目に見るような思いを幾度も味わって来ました。◇裵在伊先生を伝道者として代田教会に迎えたい旨、長老会に提案する決意をしたのも、このフォーラムの礼拝中でした。今月、わたしたちは裵先生を牧師として迎え直しました。ここにも世界の主、和解の主の姿を見るようです。◇以前礼拝に招いたライスさんに続け、今年は香港の若手牧師、張文鳳さんを6月3日に説教者として迎えます。このフォーラムの果実を皆さんと少しでも分かち合いたいと願っています。(平野克己)
○代田教会会報 2018年3月号より
◇2人の女性会員を神さまにお返しする2月でした。60年余代田教会員として共に歩み、90年の生涯を終えた方。そして、教会員として約1年ご一緒に礼拝し、55歳の若さで息を引き取った方。しかし、そのいずれの葬儀においても、ご家族によるスピーチは参列者に慰めを与え、ユーモアさえ湛えられたものでした。◇「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)。ペトロは主イエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をしました。それはおぼつかない告白、すぐに主を誤解して「サタン、引き下がれ」と叱られる告白、十字架へ向かう主の背後で「そんな人は知らない」と言いのけてしまうあやふやな告白でした。けれども、そんな不確かなわたしたちの上に、主は「教会を建てる」とお約束くださったのです。しかも、陰府の力であっても教会に対抗することはできない、と主は言明されています。主がわたしたちとの間に結んでくださった絆は、それほどに強く確かなのです。◇主イエス・キリストは十字架にかけられ、罪と死と悪魔の力の最奥に潜り込んでくださいました。そして主イエス・キリストは、墓から復活し、勝利を収めてくださいました。その主が、不確かなわたしたちの信仰さえ受け止めてくださり、わたしたちに勝利の力を注ぎ込んでいてくださいます。◇そのことを耳で聞くだけではなく、この目で見るようなお2人との別れでした。(平野克己)
○代田教会会報 2018年2月号より
◇私が最も愛する書物のひとつは、ハワーワスとウィリモンの共著『旅する神の民』(教文館)です。わたしが2003年と2013年に米国・デューク大学で研究生活を送ったのもこの2人が同大学で教えているからでした。◇彼らはこう書きます。「イエスに服従することなしに、わたしたちはイエスを知ることなどできない。…イエスを理解するためには、まずイエスに従うことが必要なのである」。「信仰なき社会となってしまった西洋文化は、自己保身と自己主張の地平を広げる教育によって信仰を失わせ、もはや旅とか冒険といったセンスを持ち合わせなくなってしまった。…今日、教会は、不信仰な社会のなかで、旅する神の民として、冒険するコロニーとして存在している」。主イエスと共に冒険の旅を歩む群れ、それが教会であるというのです。◇愛すること、仕えること、赦すこと。暴力的な社会のなかで真実に生きること、平和を造り出すこと、他者を迎え入れ礼拝の群れをかたちづくり続けること。主イエスに従うことは、常に冒険です。「わたしに従え」との主のみ声を頼りに、結果を予測できない場所に足を踏み入れる日々であるからです。しかし、主イエスと共に冒険の旅に出るときに初めて、私たちは神の力を目撃し、奇跡の証人となるでしょう。◇1938年2月20日、代田教会はこの地で礼拝を開始しました。それは冒険の旅でありました。だからこそ、繰り返し、神の力によって養われてきたはずです。信仰の旅を続けましょう。主イエスに服従する冒険を続けましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2017年12月号より
◇「あなたが洗礼を受け、あるいは聖餐にあずかり、またあなたが罪の赦しを求め、説教が語られているとき、天は開かれている。……たとえ鉄のごとく、鋼のごとき雲が我々の上にあり、天をすっぽり覆い尽くしたとしても、決して我々を邪魔することはない。それでも我々は、神が天から我々に語られるのを聞く」(ルター)。◇私たちが礼拝のために集うとき、そこに天が開かれています。それは1週間の中でほんの短い時間です。しかし、真実を見ることができる時間が長いか短いかは大きな問題ではありません。天から光が注ぐとき、わたしたちはこの世界を正しく見ることができるようになるのです。◇クリスマスの夜、野宿する羊飼いたちのそばで天が開かれました。天の光が待ちきれないようにしてこの地にこぼれてきたのです。すぐそばに主の天使が立ちました。天使は告げます。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。天使の大合唱隊の歌が続きます。「いと高きところに栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。◇それは一瞬の出来事でした。次の夜、羊飼いたちは再び野宿の生活に戻ったことでしょう。しかしあの一瞬が、羊飼いたちの視野を変えました。この地は、神の独り子イエス・キリストが産声をあげた世界なのです。◇わたしたちも、2000年の教会がうたい続けてきた歌、天使の歌をうたい続けましょう。独り子をくださるほどに、神はこの地を、そしてわたしたちの人生を、愛しておられます。(平野克己)
○代田教会会報 2017年11月号より
◇信仰・希望・愛。キリスト者の生き方を示す3つの徳目です。もしも4つめを数えるなら、そこに「忍耐」が加えられるでしょう。少し注意して聖書を読むと、ここにもあそこにも忍耐という文字が出てきます。◇忍耐。ギリシア語ではもっとすてきな文字です。「ヒュポモネー」。ヒュポ〈=下に〉モネー〈留まる〉。英語のアンダースタンド(understand)〈=下に立つ〉という文字によく似た文字です。学ぶべきことはないと高ぶっている限り、何も理解することができません。相手の前にじっと留まり、身を低くする。そのときはじめて、新しいものが見え、新しいことが聞こえてきます。そうして、自分を変えていただくことができます。忍耐とは、何ごとかを学ぶ姿勢なのです。◇忍耐。それは歯を食いしばって、うつむいて我慢することではありません。また、自分はすべてを知っているとうそぶきながら、その場を立ち去ることでもありません。地に足を着け、天を見上げ、待つのです。新しいことを、必ず神が始めてくださるからです。◇なぜ忍耐するのでしょう。それは、本当に真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことは、いつも外から訪れるからです(フィリピ4・8)。忍耐を忘れるとき、わたしたちはつまらない自分のままでいるしかありません。◇アドベントが始まります。忍耐を学び直すときです。神を見上げましょう。「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(ローマ15・4)。(平野克己)
○代田教会会報 2017年10月号より
◇本年10月31日、「宗教改革500年記念日」を迎えます。マルティン・ルターが「95箇条の論題」を提起したのは500年前のこの日でした。そうして新しい礼拝が行われるようになりました。意味の分からないラテン語礼拝ではなく母国語による礼拝へ、様式化・儀式化された礼拝ではなく神の言葉を中心とした礼拝へ、そして、一部の聖職者によって担われる礼拝ではなく全信徒が祭司として祈り歌う礼拝へ、その姿が変化していったのです。◇やがて改革者たちは「み言葉によって絶えず改革される教会」という標語を掲げるようになりました。神の言葉である聖書と説教は、わたしたちを絶えず造り変えようとしています。神の言葉は命をもち、うごめいています。命を与えるためにわたしたちを殺し、恵みに導こうとしてわたしたちを打ち壊します。そして、わたしたちを常に新しい冒険へ、神の国を待ちながら生きる巡礼の旅へ、わたしたちを連れ出します。「信仰」とは、主イエス・キリストとともに神の国へと向かう新しい旅に付けられた名前なのです。◇1517年10月31日、ルターやカルヴァンたちの業績によって宗教改革は終わったわけではありません。ルーテル学院大学の学長江藤直純先生はこれを「キックオフ」と呼びました。改革の旅はなお続いている、そしてこれから100年の歩みの大きな課題は「和解と一致」にある、というのです。そのとおりです。対立と分裂が深まるこの世界にあって、キリスト教会こそが平和の使者として生きることが求められています。(平野克己)
○代田教会会報 2017年9月号より
◇10月8日(日)に「新園舎奉献礼拝・落成式」を行う運びとなりました。約15か月にわたる工事期間、そして、それに先立つ長年にわたる祈りの結実をいっしょに祝い、新園舎を神に献げる祈りを共にします。この喜びをひとりでも多くの方と分かち合えたら、と心から願っています。◇おとなたちだけではなく、こどもたちにも信仰が必要です。信仰、それは特別な生き方をすることではありません。人間として普通で当然の生き方を身につけていくことです。天地を造られた神を知り、主イエス・キリストと親しみ、聖霊によって心を新しくされること。そして、聖書を楽しみ、祈り、感謝し、愛に生きること。そこにこそ、神に与えられた命を最大限に用いて生きる人生の知恵と喜びがあります。◇それなのに、かつては近隣の教会にあった幼児施設が、この30年のあいだ次々と閉鎖していきました。日曜日に教会に集うこどもたちの数も減少の一途。いわゆる「教会学校」を設けることのできる教会も数えるほどです。だからこそ、代田幼稚園の存在意義はますます高まっています。◇この1年にも、代田幼稚園の卒園生、そして元保護者の方々が、故郷のにおいを探すようにして、代田教会の礼拝に出席するようになりました。10年、20年、あるいは70年をかけて、神がこどもたちと親たちを見守り続けていてくださいます。その神さまのわざにわたしたちが参加することができる。なんと不思議で、なんとうれしいことかと思います。(平野克己)
○代田教会会報 2017年8月号より
◇主イエスは、いちじく桑の木の上からご自分を見下ろす男を呼びました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。そして、急いで木から降りて来て、喜んで主を迎えた男に向かって、主は宣言されます。「今日、救いがこの家を訪れた」。わたしは、ここで主が2度までも「今日」という言葉を重ねたことに心がひかれます。◇「今日」、それはザアカイにとって大切な1日、生涯忘れられない1日です。主イエスに声をかけていただき、主をお迎えしたのです。しかも、「今日」、それは主イエスにとっても大切な1日でした。明日、主はエルサレムに入るのです。やがて1週間もしないうちに、主はそこで十字架につけられることになります。だからこそ、「今日」、主イエスはどうしてもザアカイの家に泊まらなければならなかったのです。そうしないと、主の死と復活は、このザアカイと無関係なものになってしまうからです。「今日」、それは、ザアカイの人生の1日と、主イエスのいのちの1日が重なり合う日なのです。◇ザアカイは、この「今日」という言葉を思い出し、あちらの教会、こちらの教会で、この日の出来事を語ったのでしょう。救いとは、わたしたちの小さな今日と主イエス・キリストの大きな今日が重なり合うことです。なんとなく過ぎていく1日。しかし、それが主をお迎えしている1日であれば、神の歴史の1日となるのです。(平野克己)
○代田教会会報 2017年6月号より
◇代田幼稚園の新園舎完成の日が近づいてきました。設計のためには難しい敷地です。奥まった場所、しかも、敷地は決して広くはありません。さらに、限られた予算。そのような条件下、空間研究所が、他の幼稚園で見たことがない、ワクワクする空間を構成してくれました。巧みに組み合わされた部屋。高い天井。風、光がたくさん入ってくる明るい保育室。ふんだんに木材を──しかも安価な素材をすてきに組み合わせて──用いた内装。庭を見渡すバルコニー。幼稚園の子どもたちは、もうすぐ自分たちが引っ越すことになる園舎を遠目に見ながら、「ホテルみたい」と楽しみにしています。◇施工者である新発田建設も、丁寧な仕事を積み重ねてくださっています。乗用車でも車体をこすらないか冷や冷やする狭い通路に、巧みに工事車両を導き入れ、しかも、幼稚園日常活動にまったく支障のないように配慮してくださっています。個性的な園舎です。それだけに、図面を立体化していくに多くの工夫が必要でしょう。◇この建物は、代田教会員に直接の利益をもたらすわけではありません。しかし、そのために、わたしたちが協力し合うことができている。なんとすてきなことでしょう。これから生まれてくるこどもたちのために、そして、神のために、心を込めてお献げしたいと思います。7月16日の礼拝後、教会員向けの内覧会を予定しています。ぜひお集いください。引き続き、8月、9月と現園舎の取り壊しと庭の造成が始まります。祈りをもって、お支えください。(平野克己)
○代田教会会報 2017年5月号より
◇「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15・13)。ほんとうに大切なものは、内側から湧いてきません。ほんとうに大切なものは、外側からやって来ます。◇わたしたちは「希望」とは、自分から思い描くものだと教えられてきました。幼い日から学校では、あなたの将来の夢は何かと尋ねられます。仕事を始めれば、1年後、5年後、10年後の目標を定められ、そのための達成プランを策定させられます。こどもが生まれれば、親なりの愛情をもって、自分の夢をこどもに託します。◇けれども聖書は不思議なことを教えます。希望の源である神! 希望は神から来る、というのです。◇わたしたちが内側で持っている希望は、指の間からこぼれ落ちていく砂のように、だんだん目減りしていきます。自分が果たしえたことよりも、果たすことのできなかったことのほうがずっと多いのです。幸運にも、希望どおりに事が進んだとしても、そこで味わう達成感はあっという間に消えていきます。◇生きる意欲を失うとき、わたしたちはあまりにも自分の内側をのぞき込んでいるのかもしれません。希望の源は神にある! 神に向かって顔を上げ、神からの息吹、聖霊を全身に浴びるとき、このわたしにも、死の日まで、用いていただける道があることがわかるというのです。その希望は静かなものかもしれません。しかし、そこに喜びと平和が満ちています。(平野克己)
○代田教会会報 2017年4月号より
◇代田教会の第1回礼拝は1938年2月20日。その日、小川治郎牧師は、「我らの志を宣ぶ」という説教題を掲げました。◇今年度、私は、教会は「伝道」に生きる群れである、という当然のことをみなさんに繰り返し呼びかけたいと思います。しかし、「伝道」という言葉はあまりにも繰り返され、意味不明な言葉になりはじめているかもしれません。伝道とは、私たちの志を宣べ伝えることです。◇伝道とは、教勢の拡大を図ることが第一ではありません。「我らの志」をこの地で広げていくことです。主イエスの志こそ、我らの志です。この社会がこのままでよいはずがありません。私たちを支配するのは政治家たちでも、あちらこちらで人々を支配する小さな権力者たちでもありません。御子の到来とともに神の支配が始まっています。主イエスは、そのことを声高らかに宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた」。◇そして、主は続けました。「悔い改めて福音を信じなさい」。世界の国々でナショナリズムが台頭しています。平和などという言葉は、現実を無視した甘い言葉だと言わんばかりです。しかし、平和を説かれたのは神の御子です。主イエスは、この世の嘲笑を身に受けながら、しかし、復活されました。この世の力には、御子の愛の歩みを止めることはできなかったのです。◇信じ、望み、愛すること。そのことこそ、しっかりと地に足を着けた生き方です。その喜び、その志をこの地に指差す代田教会であり続けたい。それが、牧師としての強い願いであり祈りです。(平野克己)
○代田教会会報 2017年3月号より
◇週日に、教会に来て間もない方と『ハイデルベルク信仰問答』を読んでいます。1対2。信仰のプライベートレッスンです。◇この本の入口にこのような問答が記されています。「問・何によってあなたは自分の悲惨さに気づきますか。」「答・神の律法によってです。」「問・神の律法はわたしたちに何を求めていますか。」「答・キリストは次のように教えておられます。『あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。」◇そして、こう続きます。「問・あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。」「答・できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」◇神を愛することができない。隣人を愛することができない。生まれつき憎む方へと心が傾いているとしか言えないほどまでに。痛みと悲しみに満ちた自覚です。しかもそれは、主イエス・キリストを知るときにはじめて生じる自覚です。◇饒舌に神を、人を、評論し批判する。相手を裁き、見下げ、無視することで自分の安全を保つ。あるいは、神と人と損得勘定で付き合い、相手を利用することしか考えていない。しかも、そのようにして生きている自分がどれほど惨めであるかということにさえ、気がつかないでいるのです。◇そのわたしを本当に知り、悲しんでくださっているのは主イエスだけです。受難節です。主のまなざしのなかに立ちましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2017年2月号より
◇「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)。◇歳を重ねるごとに、また、様々な体験を積み重ねるごとに、それまで漠然としていた言葉に輪郭が与えられ、その意味が鮮やかになっていく、ということがあります。たとえば「恋」という言葉。若い日に、誰かを愛おしく思い、意図せずに内蔵のある部分が動き始めるのをはじめて感じたとき、「恋」という言葉に新しい意味が与えられます。◇教会。それは、陰府の力も対抗できない集いである。主イエスが、ペトロにそして私たちに、そう告げてくださいました。この1年、実に多くの教友がこの世の生涯を閉じました。この教会の礼拝堂で、ご一緒に多くの葬儀を執り行いました。そうしながら、これまでよりもずっと、主のお言葉が重みをもち、光を放ち、私の心の奥底ではっきりしてきたように思います。◇教会に対して、陰府の力は手出しさえできない。それは、この教会を成り立たせている私たちに力があるからではありません。この代田教会もまた、主イエス・キリストが「わたしの教会」と呼んでくださる集い、キリスト御自身の体であるからです。この体は、十字架の上で傷つけられた体。しかも、受けた傷そのままに復活なさった体。陰府の力にも滅ぼすことのできない体。私たちはその教会の一員とされています。何と素晴らしいことでしょう。◇代田教会創立80年へと向かう旅路が始まります。行く手に心配はありません。(平野克己)
○代田教会会報 2017年1月号より
◇1月22日の主日礼拝でマタイ福音書を読み終えました。改めて調べていませんが、毎週の礼拝でご一緒に耳を傾けながら(その間私の3か月の研究休暇がありましたし、また他の聖書箇所を開くことがありましたが)、6年近くになるでしょう。主が直接の弟子たちと旅をしたのは長くて3年と言われます。そう思うと、その2倍近くの月日、私たちはマタイが伝える主と共に旅をしてきました。◇6年前の2011年。東日本大震災が起こった年です。今なお震災の傷跡深く、しかも原発による放射能汚染が留まらないなか、6年が経ちました。この6年、私たちは代田教会の仲間の葬儀を繰り返してきました。また、この6年、ずいぶん多くの信仰の仲間が新しく私たちの群れに加わりました。◇マタイ福音書は、復活された主の次の言葉で終わります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この言葉は、福音書の冒頭に出てくる言葉でもあります。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。神の子イエス・キリストが私たちと共にいてくださる。この言葉が、この福音書の第1章から第28章まで、通奏低音として流れています。◇この6年。主イエス・キリストは、私たちと共にいてくださいました。喜びの日に、悲しみの日に。そして、そのことはこれからもずっと、ずっと変わることがありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。(平野克己)
○代田教会会報 2016年12月号より
◇「神が一度ですむような仕方で私を神に回心させたのであって、私がみずからの力でただ単に一度神に回心したわけではない。神が始まりをもたらしたのである。まさにこのことが喜ぶべき信仰の確かさなのである。それゆえ私は、神のひとつの始まりのほかに、なお無数の始まりを持とうとはしない。このことから私は解放されているのである。始まりは一度ですむような仕方で私の後ろに置かれているのだ」(ボンヘッファー)。◇私たちのあやまちは、信仰を自分の心の事柄へと縮小してしまうことにあります。何かを感じるか感じないか、自分に納得がいくかいかないか、それが一番大切なことであると勘違いをして、信仰とは感情の事柄だと思い込んでしまうのです。◇御子イエス・キリストが私たちのために生まれてくださいました。私たちのために十字架で死に、復活してくださいました。そのような仕方で、父なる神は、私たちの救いを開始してくださいました。その事実にこそ、私たちが立つべき確かな足場があります。◇最も大切なことは、私たちがこのクリスマスに何らかの決心をしたり、感動的な瞬間を味わったりすることではありません。そうではなく、最も大切なことは、父なる神が私たちのために決心し、胸を引き裂かれる思いで独り子をこの世にお送りになったことです。この世界は、そして、世界の歴史は、神の大きな愛が刻み込まれた場所なのです。◇クリスマスおめでとうございます。この日、神が、私たちの人生に新しいことを始めてくださいました。(平野克己)
○代田教会会報 2016年11月号より
◇主イエスは、不思議な戦い方をなさいます。マタイ福音書によれば、主が伝道を始めたのは、「ヨハネが捕らえられたと聞」いたその時でした(4・12)。しかも、都エルサレムではなく辺境ガリラヤから伝道を開始されました。そうして、山上の説教を語り、この世が教えるのとは異なる倫理によって生きる「地の塩・世の光」の神の民を形成されました(5-7章)。◇領主ヘロデの誕生パーティーの席上で洗礼者ヨハネが斬首されたとき、主は「これを聞くと」「人里離れた所」に退き、その場所が五つのパンと二匹の魚で大群衆を養うもう一つのパーティーの会場に変わりました(14・13以下)。◇復活された時もそうです。復活などなかったとエルサムで隠蔽工作をする祭司長と長老たちに対して、主イエスはガリラヤの山の上に弟子たちを集め、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じます(28・16以下)。暴力と死が台頭する世界のなかで、主イエスは愛の言葉による戦い、そして、その言葉に生きる民を形づくることを開始されたのです。◇私にとっても、またキリスト者にとっても、そして、この社会にとっても、教会はなくてはならないものです。父なる神が主イエス・キリストを十字架につけるまでして、築いてくださった神の民、それが私たちです。今、このような時代であるからこそ、ご一緒に代田教会を大切にしていきましょう。そして、ご一緒に代田教会を育てていきましょう。この地域のための神の侵入口、それが私たち代田教会なのです。(平野克己)
○代田教会会報 2016年10月号より
◇「祝福を確信しよう」。心の底を揺り動かされる日々を迎えるごとに、私が思い出す言葉です。◇私たちの祝福は、自分が心地よいか、そうではないか、ということで判断されるものではありません。天地を創造し、歴史を導いておられる神がくださる祝福が、そんなちっぽけなものであるはずがありません。それなのに、私たちが神の祝福を小さなものに変えて意気阻喪しているなら、あまりにも事実とかけ離れています。◇「私たちの救いを些細なことと思ってはなりません。なぜなら、私たちが救いを些細なことと思うということは、私たちが些細なものしか受け取ることを望んではいないことになるからです。それが些細な事柄に関わるものであるようなつもりで聴く者は、罪を犯しているのです」。紀元1世紀に生きたローマのクレメンスの言葉です。記録として残されている最古の説教の冒頭です。ああ、そうです。心の底を揺り動かされている時、私たちは自分の救いは小さく些細なことだと勘違いをしているのです。◇私たちへの祝福は、私たちの日常の気分からではなく、主イエス・キリストの十字架と復活から訪れます。神の子が、私たちのために、ゲツセマネで祈ってくださいました。神の子が、私たちのために、十字架の上で死んでくださいました。そして、神の子が、私たちのために、復活してくださいました。その方が私たちを選び、私たちが生きる時も死ぬ時も、共に歩む決断をしてくださっています。ここにほんものの祝福があります。祝福を確信しましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2016年9月号より
◇先月のこのコラムに、7月から開始した週刊メールマガジン「祈りの手紙」のことを書きました。7月7日の第1号は174人に配信しましたが、現在は228人。月曜日の朝、ずいぶん多くの方の手元に聖書の言葉が届くようになりました。◇それに引き続いて、今月の長老会ではFacebookに試行版として開設されていた代田教会のページを教会の公式メディアとすることが決定されました。今月11日の「敬老の祝い」で行った裵先生と教会の若者たちと私の4人編成の合唱も、早速このページから動画で見ることができます。◇私は、どちらかと言えば、インターネットは得意ではありません。メールマガジンもFacebookも、50代の若手(代田教会では!)の方々が支えていてくださいます。本当にありがたいことです。これらの「インターネット化」の始まりによって、教会にも新しい味わいが増すことでしょう。◇この夏、礼拝を愛し続けた3人の男性が逝去されました。それぞれのしかたで代田教会を担った方々です。そのうち1人でも欠けていたなら教会の味わいは淋しいものとなっていたことでしょう。◇信仰生活はよくマラソンにたとえられますが、むしろ駅伝のようなものだと私は思っています。独りで始め独りで完成する競走ではありません。たすきを順々に受け継ぎ、与えられた区間を走り抜くのです。信仰の創始者であり完成者である主イエスに仰ぎ見ながら。◇幼稚園の新園舎の建築も始まりました。しっかりとたすきを受け継ぎ、ご一緒に走りましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2016年8月号より
◇小学生たちが集う子ども科の礼拝はいつも次の言葉で終わります。司式者:主は言われます。「わたしは誰を遣わそうか」 子ども:わたしがここにおります。わたしをお遣わしください。 司式者:キリストの平和の使者として、行きなさい。 一同:アーメン! ◇礼拝には私たちの人生のすべてが凝縮されています。神に招かれ(招詞)、神をほめたたえ(賛美)、自分のあやまちを告げ(罪の告白)、私たちの人生を新しくする神の言葉に耳を傾け(聖書朗読・説教)、主イエス・キリストの命に養われ(聖餐)、主イエスの心を自分の心として世界のために祈り(主の祈り)、献身を誓い(献金)、日常の生活へと送り返される(祝福と派遣)。私たちはそのようにしながら、自分が誰のため、何のために生きるのかを忘れないようにするのです。◇私たちは日曜日だけ教会として存在するのではありません。教会とは建物のことではなく、神に呼び集められた者たちのことです。私たちは日曜日には「集められた教会」として、そして、平日には「散らされた教会」として生き、キリストの平和の使者としてそれぞれの場に派遣されています。◇みなさまの週日の日々が、御言葉によって、祈りによって、さらに支えられるように、という思いをもって、7月からメールマガジン「祈りの手紙」を始めました。毎週月曜日の朝、インターネットを通して、お手元に聖書の言葉を届けています。ご希望の方は、お申し込みください。(件名に「配信希望」と記してhirano@daita-church.jpまで)(平野克己)
○代田教会会報 2016年7月号より
◇小学生たちが集う子ども科の礼拝はいつも次の言葉で終わります。司式者:主は言われます。「わたしは誰を遣わそうか」 子ども:わたしがここにおります。わたしをお遣わしください。 司式者:キリストの平和の使者として、行きなさい。 一同:アーメン! ◇礼拝には私たちの人生のすべてが凝縮されています。神に招かれ(招詞)、神をほめたたえ(賛美)、自分のあやまちを告げ(罪の告白)、私たちの人生を新しくする神の言葉に耳を傾け(聖書朗読・説教)、主イエス・キリストの命に養われ(聖餐)、主イエスの心を自分の心として世界のために祈り(主の祈り)、献身を誓い(献金)、日常の生活へと送り返される(祝福と派遣)。私たちはそのようにしながら、自分が誰のため、何のために生きるのかを忘れないようにするのです。◇私たちは日曜日だけ教会として存在するのではありません。教会とは建物のことではなく、神に呼び集められた者たちのことです。私たちは日曜日には「集められた教会」として、そして、平日には「散らされた教会」として生き、キリストの平和の使者としてそれぞれの場に派遣されています。◇みなさまの週日の日々が、御言葉によって、祈りによって、さらに支えられるように、という思いをもって、7月からメールマガジン「祈りの手紙」を始めました。毎週月曜日の朝、インターネットを通して、お手元に聖書の言葉を届けています。ご希望の方は、お申し込みください。(件名に「配信希望」と記してhirano@daita-church.jpまで)(平野克己)
○代田教会会報 2016年6月号より
◇今年の春から初夏にかけて、同年輩の友人たちから、それぞれの娘の死を聞くことになりました。この友人たちはそれぞれ繊細で豊かな感性をもって文章をつづり、人びとを導き、教会に仕えている母たちです。遠くにいる友人は3月に21歳の娘を癌で、近くにいる友人は5月に34歳の娘を肝臓病で、それぞれなくしたのです。◇今月、仕事の関係でそのひとりに会いました。私のほうからお嬢さんの死を話題にすることはありませんでした。どのような言葉を選んでもふさわしくないと思えたからです。そのような私の心を読み取って気づかってくれたのでしょう、娘の死を短く話したのは彼女のほうでした。そして、ひと言、優しく柔らかな声でこう言いました。「わたしはこの悲しみは死ぬまで癒されなくてもいい、そう思っているんです」。◇「スターバート・マーテル」という詩があります。「悲しみの聖母」という意味。13世紀にトーディという人が記した詩です。以後、600人を超える作曲家がこの詩に曲をつけ、息子イエスをなくした母マリアの悲しみを歌い続けました。彫刻にも「ピエタ」という主題があります。哀れみという意味。十字架から降ろされた息子イエスの死体を抱くマリア像です。中世の教会は、悲しみを排除しませんでした。むしろ教会の真ん中に悲しみを置き続けてきたのです。◇私たちの悲しみは癒されなくてもいい。心の中から悲しみを追い出さなくてもいい。この悲しみは、母マリアの中に、主イエスの中に、そして、神の中に、存在しているからです。(平野克己)
○代田教会会報 2016年5月号より
◇5月15日に開かれた臨時教会総会において、代田幼稚園の新園舎建築について、最終的な決議がなされました。◇私たちが教会に集うことができるようになったのは、人生のいつかある時期に福音に接する機会があったからです。そのようにして、私たちは聖書の物語に慣れ親しみ、祈りの言葉をおぼえ、讃美歌を歌う楽しさを知り、主イエス・キリストを通して神を父と呼びながる生きる幸せを得ました。一人のキリスト者が誕生するまでに、いったい何人の、いったい幾年にわたる祈りがささげられていることでしょう。神は、たったひと声で人間を変えようとはなさらないようです。忍耐強く囁きかけ、ねばり強くこころが開かれるのを待っていてくださいます。代田幼稚園もまた、そのために用いられるよう、ひたすら祈ります。◇もっとも教会幼稚園は伝道機関そのものではありません。最良の環境を準備し、こどもたちを迎え、この地域の方々に奉仕する場所です。しかもその時、私の知る限り、最良の教育は信仰なしに、神の愛に立つことなしには成り立ちません。義と愛の神を追い出しながら築き上げられてきた社会が、人を悲しませ、苦しませています。だからこそ、神の愛の中へ、こどもたちを迎え続けていきたいと思います。◇考えられる限り最良の設計者、最良の施工業者が与えられました。神のご配慮を目に見る思いがしています。これから生まれてくるこどもたちのために、おとなたちみなで手を携えて、すてきな園舎を贈りましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2016年4月号より
◇Oさんをグループホームに訪ねるようになって、もう何年になるでしょう。クリスマス、イースター、そして敬老のご挨拶。年に3回、教会の長老と訪ね、ホームの食卓をお借りしては礼拝を続けてきました。◇やがて間もなく不思議なことが始まりました。はじめはOさんとだけの集いでしたが、次第に食卓に集まる人たちの数が増え、みんなで讃美歌を歌い、祈るようになりました。さらに「ニセ牧師」と称するボランティアの男性が登場し、キリスト者でもないのにそこにいる方々に主の祈りを教え、ついには食堂の壁に主の祈りの言葉が常時掲示されるようになりました。そしてこの4月に訪ねた時に伺ったことには、そのグループホームの7周年記念の集いで、入所者も職員もみんなそろって讃美歌「いつくしみ深き」を出し物として歌ったというのです。キリスト教の施設でもないのに。◇私が着任した頃、Oさんは毎週土曜日に教会に来て、週報を丁寧に折り、ひとりひとりのボックスに入れてくださった方です。やがて、教会に来る曜日を間違え、礼拝に出席できなくなり、言葉の数もだんだんと減っていきました。今はすっかり言葉を失い、微笑むことしかできません。それでもなお、彼女の存在から何かが伝わり続けているのです。◇パウロは裁判の席でこういう言葉で告発されました。「この男は疫病のような人間だ!」(使徒24・5)。福音を感染させてしまう人間だというのです。私たちの信じている福音には、インフルエンザにも負けない感染力があるのです。(平野克己)
○代田教会会報 2016年3月号より
◇「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」(ルカ24・6、7)。◇空の墓に天使の声が響きます。それは、私たちを問う声です。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。主イエスは墓の中に閉じ込められていません。主は、過去に閉じ込められていません。主が復活されたとは、今も生きておられる、ということです。主は今、生きて、私たちを助け、励まし、導き続けていてくださる。「あの方は、ここにはおられない」、墓の中にはおられないのです。それなのに、私たちのほうは、そのことをすっかり忘れてしまいます。復活よりも死の力が、神よりも人間の暴力が、神の赦しよりも私たちの罪が、神の憐れみよりも自分の心の傷が、大きいと勘違いをしてしまいます。◇「思い出しなさい」 主イエスの言葉を思い出しなさい! 幾度も礼拝で聴き続けてきた言葉、聖書で読み続けてきた言葉を思い出せ、というのです。そこにこそ私たちのたしかな現実があるからです。◇主イエス・キリストの復活。それは、説明されて納得できることではないでしょう。福音書もまた説明しようとしません。この声を聞いた婦人たちは、使徒たちの前でただ繰り返したのです。「あの方は、復活なさった!」 私たちもまた、その言葉を繰り返しながら生きていきます。「本当に、あの方は、復活なさった!」 その時、主の復活の光が私たちを照らし始めます。(平野克己)
○代田教会会報 2016年2月号より
◇私たちの肉体は食べ物によってつくられていきます。だからどのような食物を食べるかにはよく注意します。同じように──そのことは意識しないままでいることが多いのですが──、私たちの心は言葉によってつくられていきます。私たちがどのような言葉を聴き続けているかが、私たちの人生に決定的な役割を果たすのです。◇昨年6月、日本キリスト教団出版局から『祈りのともしび・2000年の信仰者の祈りに学ぶ』という小さな書物を刊行しました。世界中から2000年にわたるキリスト者たちの祈りを集めた本です。◇私たちが思っていることを神に告げれば、それがそのまま祈りになるわけではありません。祈れば祈るほど自分がみじめな思いになっていくという体験を多くの人が味わったことがあるでしょう。だから祈りの言葉を学ぶことが大切です。良質な言葉を聴き、読み、その言葉を神に向かって語ってみるのです。その繰り返しによって、私たちの心は必ず新しくされていきます。◇この本は、もともとは代田教会の婦人会での学びのためにまとめたものでした。それが本になり、多くの人たちの手元に届けられるようになったことを不思議に思います。パソコンを使っておられる方には、YouTubeでも、この本についてふれることができます。(「平野克己本の旅」で検索してみてください)、日本FEBCでも(「平野克己FEBC」で検索してみてください)◇2000年の祈りが、みなさまの心に「祈りのともしび」を灯してくれますように。(平野克己)
○代田教会会報 2016年1月号より
◇「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(テモテへの手紙二1・7)。『ローズンゲン日々の聖句』が選び出した1月の聖句です。◇この言葉は、伝道者パウロが「愛する子」と呼びかけた弟子、テモテに向けた手紙の一節です。テモテはキリスト者の家に生まれました。祖母の名はロイス、母はエウニケ。それだけに、「純真な信仰」に生きた若者、柔らかな心をもってよく泣く若者でした(1・4、5)。その若者に、パウロは書き送ります。神がくださったのは、臆病の霊ではない、と。◇教会の中で、〈弱いままでいい〉と言われることがよくあります。一方で、その通りです。私たちは、自分の強さによって救われるわけではありませんし、弱い私たちを主イエスが助けてくださいます。しかし同時に、いつまでも〈弱いままでいい〉わけはありません。私たちがまるで神を忘れているかのような言動を続けてしまうのは、弱いからです。弱いとは罪、臆病は罪なのです。そしてその弱さを、誰もが抱えています。◇しかし神は、私たちを弱いままにしておこうとはなさいません。私たちに聖霊を注ぎ続けてくださいます。私たちを「力と愛と思慮分別」をもって生きることができるようにしてくださいます。何年も、何年もかけながら。◇新しい年です。自分の中にある「臆病」とたたかいながら歩みはじめていきましょう。もっともっと聖霊を呼吸しながら、歩んでいきましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2015年12月号より
◇クリスマスの夜、天使に促された羊飼いは、救い主を捜すためにベツレヘムへ向かいました。星に導かれた博士は、まことの王を捜し続けました。クリスマスは、私たちの中に眠ってしまっている憧れの心を新しくする時です。◇憧れ、それは、童の心という文字です。幼い頃、私たちの心は憧れの思いでいっぱいでした。それなのに、私たちは歳を重ねるごとに、目に見える世界に閉じ込められていきます。◇それでも、憧れの心は、ときどきむっくりと起き上がります。アウグスティヌスは言いました。「あなたは私たちをあなたに向けて造られたので、私たちの心はあなたのなかで憩うまでは、安らぎがないのです」。神に憧れ、神を捜し続ける心が、私たちの奥底に埋め込まれているのです。◇憧れは、この世界を神が新しくなさるという信仰によって目を覚まします。A・グリューンというドイツの神父はこう記します。「あこがれは、わたしをこの世界の向こうに連れ出します。わたしの中に、この世界を超えたものがあります。この世界は、それに対して何の力も持っていません。…あこがれは、わたしたちが作り上げたコンクリートや戦車を砕く力を持っています」(『クリスマスの黙想』より)。◇2000年前のクリスマスを知る私たちは、主が再び地を訪れる「永遠のクリスマス」に飢え渇きます。主がお約束くださったからです。「然り、わたしはすぐに来る」、と。私たちは、世界中のキリスト者たちとともに答えます。「アーメン、主イエスよ、来てください!」(黙示録22・20)(平野克己)
○代田教会会報 2015年11月号より
◇待降節、アドベントの歩みが始まりました。実は「アドベント」という文字には、「待つ」という意味はありません。それは「到来」という意味。もしもあてなく待ち続けるなら、それは虚しい業でしかありません。しかし、主イエスはお約束くださいました。「然り、わたしはすぐに来る」。そして私たちは、代々の聖徒たちと声を合わせて答えます。「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22・20-21)。◇私たちは、すべてを計画し、計画通りに進まないと意気阻喪し、予想していた結果を得ることで安心する社会ルールの中で生活しています。そうしながら、いつの間にか「待つ」ことを忘れてしまいます。◇東日本大震災のとき、「想定外」という言葉がさかんに用いられました。すべては想定できる、それが社会と生活の基本だと思い込んでいるのです。しかし、聖書の民はそうではありませんでした。この世界は「想定外」の出来事に満ちていると考えたのです。なぜならば、この世界は、神が介入してこられる場所であるからです。◇「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている。夜は更け、日は近づいた」(ローマ13・12-13)。救いは心の中で生まれる思いつきではありません。私たちの外側から、私たちの想定外のしかたで、神はこの世界、この人生に介入してこられます。クリスマスの出来事のように。◇夜の漆黒の闇が濃ければ濃いほど、光に満ちた日が近づいてきます。主イエス・キリストがもたらしてくださる救いの日が近づいてきます。(平野克己)
○代田教会会報 2015年10月号より
◇私の編著『祈りのともしび・2000年の信仰者の祈りに学ぶ』(日本キリスト教団出版局)の刊行から4か月が経ちました。幸い、複数のキリスト教書店でよく売れていると聞いています。また、今月からこの本をもとにした日本FEBCでの放送も始まりました(インターネットで「FEBC」と検索してみてください)。◇もともとこれは、代田教会パンフレット「祈りの言葉」として発行したものです。祈ることにある高さ、広さ、深さ、長さをぜひいっしょに学びたいと願ってのことでした。代田教会での営みが、日本中のキリスト者たちの手元に届いていく。それは、本当にうれしいことです。◇パンフレットから同書に収録することができなかった、私の愛する祈りがあります。日本では無名の信仰者、アンジェラ・アシュウィン(1949年生)の祈りです。「アッバ、父よ、/わたしはここにおります。/あなたのために、/わたしのために/この世界のために、/いま、この時のために。/わたしはここにおります。」◇私たちが祈るとき、父なる神と差し向かいに立っています。それは、奇跡です。それなのに、私たちはいつの間にか祈ることに慣れてしまい、祈りが独り言のようになり、いま神のまなざしに直面している真剣さと喜ばしさを失ってしまいます。だから、祈るのです。「わたしはここにおります」、と。◇神の赦しと憐れみのまなざしの中で、そっと口を開きはじめる。神が私たちの言葉にじっと耳を傾けてくださる。これ以上の奇跡、幸せがあろうかと思います。(平野克己)
○代田教会会報 2015年9月号より
◇今年度長老が特に取り組んでいる課題は、幼稚園園舎建築と教会規則作成の2つです。◇園舎建築については、9月27日の礼拝後に説明会を開き、基本設計と資金計画の概要をお知らせしようとしています。設計者は篠原聡子さん。日本女子大学教授として学生を育てると共に、昨年の日本建築学会賞を受賞された方です。創意と工夫に満ちた園舎です。また、園舎が建ち上がることで、現教会堂の階下ホールのスペースも今よりずっと教会の集いに使用できるようになるでしょう。着工は来年夏の予定。いよいよ近くなってきました。建築委員会の諸氏が丁寧な作業を進めています。◇もう1つは、教会規則です。代田教会はこれまで宗教法人代田教会規則、日本基督教団が示す準則、そして代田教会が積み上げてきた諸規則と慣例をもって、教会を運営してきました。みんなが手元に置くことができる教会規則が成文化されることはありませんでした。日本基督教団教規では、各教会が宗教法人規則とは別に教会規則を定めるようにとされています。代田教会もまた、この規則を明文化していく過程で、教会がどのような集いであるかを、みなが学ぶよい機会となることを願っています。長老会の諮問を受け、担当の浅山良行長老、そして、十時惠子・福田佳也・水本和智の3氏が小委員会をつくり、検討を続けています。◇これらのことが、主の働きとして用いられますように。そして、代田教会の歩みがますます充実したものとなりますように。それが、牧師の祈りです。(平野克己)
○代田教会会報 2015年8月号より
◇「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」(イザヤ11・6)。8月になるごとに強く思い起こす聖書の一節です。◇弱肉強食という言葉があるように、通常は、狼は小羊を、豹は子山羊を、若獅子は子牛を殺して食べます。人間の世界でも同じだ、と私たちは思い込みます。結局、人は強くなければならない。弱いままでは食い尽くされてしまう、と。◇けれども、神は異なることを考えておられます。新しい世界が訪れるのです。弱い者と強い者が共に生き、しかも、その群れ全体を小さい子供が導いていく世界が来る。それは、「水が海を被っているように、大地は主を知る知識で満たされる」日です(11・10)。◇ある人は、「聖書の特徴は私たちの認識をひっくり返すところにある」と言いました。私たちがこの眼で見ている世界が現実のすべてだと思い込んでいるところに、父なる神は、主イエス・キリストの十字架と復活によって、まったく新しい世界を開始されました。この世の暴力と死の力によって、神のわざを中止させることはできなかったのです。そこにほんとうの「現実」があります。それなのに、まだ人間は寝ぼけているのです。弱肉強食でなければ世界が成り立たないと勘違いしているのです。◇「み国を来たらせたまえ」と祈り続けるようにと、私たちの主イエス・キリストは教えてくださいました。それは、この世界に必ず神の国が来るからにほかなりません。ごいっしょに祈り続けましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2015年6月号より
◇6月16日のエマノン会(おおむね70歳以上の方々の集い)では、教会の葬儀について語り合いました。その場で次のような話をしました。◇「わたしは簡素に、しかし厳かに死ななければならない。……さあ行って、人々を集めなさい」。T・G・ロング『歌いつつ聖徒らと共に』(日本キリスト教団出版局)に紹介されていた、ローマ・カトリック教会の教皇、ヨハネ23世の死の床での言葉です。ここにキリスト者の葬儀の3つの特徴が簡潔に言い表されています。◇まず、教会の葬儀は〈簡素〉であるべきです。不必要に飾りたてる必要はありません。ある程度の個性はあってよいでしょうが、その場で自己主張するほど愚かなことはありません。しかし同時に、教会の葬儀は〈厳かさ〉を重んじます。私たちの人生は、主イエス・キリストの命を注いでいただいたほどに重く大切なものです。それゆえ葬儀は軽薄であってはなりません。そして、葬儀は〈人々が集う〉場所です。私たちは別れの悲しみのなかで一つとされるのです。◇私たちは時代の風潮に大きな影響を受けます。自分の考えだと思っていても、実は時代の流行に左右されているだけの場合が多いのです。その証拠に、葬儀についての一般的な考えも30年前とは様変わりしました。しかしだからこそ、私たちは、教会が大切にしてきた葬儀の伝統を大切にしていきたいと思います。神の御力によって古いいのちから新しいいのちに生まれ出る。葬儀はその日を待つ、希望の時でもあります。(平野克己)
○代田教会会報 2015年5月号より
◇「『武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって』と万軍の主は言われる」(ゼカリヤ書第4章6節)。聖霊降臨祭を迎えようとする週、『日々の聖句─ローズンゲン』が選び出した週の聖句です。◇聖霊は、力にあふれた神そのものであられます。不思議なことに、神そのものである聖霊が私たちの内側に住んでくださるのです。◇あの日、主イエス・キリストを天に送って失意のなかにあった弟子たちを聖霊が訪れ、新しい歩みを始めました。主イエスと一緒に捕らえられることが恐ろしくて逃げ出した弟子たちが、殉教の死さえ恐れずに、教会を築き始めたのです。◇しかもそれは、個人の心理的変化に終わることではありませんでした。父なる神は、弟子たちに聖霊を与えることにより、十字架に現れた罪の力、人間の武力、権力に対するキリストの愛の戦い、赦しのための戦いを、教会共同体において継続させたのです。◇「武力」「権力」という言葉が身近に感じる時代となりました。戦後70年を迎えたこの年、日本は大きく変わろうとしています。その中で、私たちは、「ただわが霊によって」と語られる神に従いながら歩んでいきたいと思います。◇古くからの祈りに、「来たれ、聖霊よ」という短い祈りがあります。父なる神に対してだけではなく、聖霊に向かって語りかける祈りです。「来たれ、聖霊よ」。この聖霊は、キリストを死者の中から復活させた霊でもあります(エフェソ1・20)。それほどに大きな力が、あなたの中にも生きています。(平野克己)
○代田教会会報 2015年4月号より
◇復活祭とともに新しい年度を迎えました。新年度の最初に、教会の方々に呼びかけたいと思います。ごいっしょに喜びの知らせを伝えましょう! ◇昨年度の聖句「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」に引き続き、今年度は次の言葉が教会の年間聖句に選ばれました。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」。いずれも、主イエス・キリスト、そして、父なる神から私たちへのご命令でありご依頼です。それほどまでに、私たちの力が必要とされています。それゆえ、神さまのご期待に沿う歩みをしていきましょう。◇教会はすばらしい場所です。ここで洗礼によって永遠の生命が与えられ、ここで神の声を聞き、ここで聖餐を祝うことができるのです。ここに神の国が姿を現しています。ここに、主イエス・キリストがおられます。憐れみの主は、私たちの罪にもかかわらず、繰り返し私たちを教会に迎えてくださいます。私たちはここで愛を注がれ、信仰を回復し、希望を受け取り直します。生涯の友人といつでも帰ることのできる故郷が与えられます。私たちは幾度も、この場所に立ち帰りながら、目を覚まして生きていくのです。◇こんなにすばらしい場所を築くために、主イエス・キリストが死んで復活されました。それが福音です。ここに、私たちの人生の最大のよろこびがあります。◇教会の礼拝にご家族・ご友人をお招きください。私も最上のみ言葉を用意しながら、お迎えしたいと心に期しています。(平野克己)
○代田教会会報 2015年3月号より
◇4月下旬に開かれるデューク大学神学部和解センター主催の「北東アジアキリスト者和解フォーラム」の準備のために、長崎を訪ねる機会が多くなりました。今月も2泊3日を長崎で過ごしました。長崎に滞在していた3月17日は、「信徒発見」の出来事から、ちょうど150年の日でした。◇1865年、フランス人のための礼拝堂として大浦天主堂が献堂されてから約1か月。浦上地域で生活をしていた潜伏キリシタンが、プチジャン神父を訪ね、秘かに告げました。「私の胸、あなたの胸と同じ」。「サンタ・マリアのご像はどこ?」 約250年、教会堂も指導者もなしに、信仰を伝え、守り続けていた人々がいたというニュースは、全世界をかけめぐりました。◇しかしこの出来事は、キリスト教禁制令の解けていなかった時代に、大迫害を招くことになりました。間もなく、浦上村に住んでいた約3000人のキリシタンは一斉に検挙され、日本のさまざまな地域に流されたのです。そこで飢えと拷問にさらされ、棄教を迫られました。しかし、多くの人々が信仰を貫きました。◇長崎は、1597年の「26聖人の殉教」、1867年の「浦上四番崩れ」、1945年に浦上村上空で炸裂した原子爆弾と、キリスト者の悲しみの歴史を深く刻んだ土地です。しかしそれなのに、日本で最も教会がいきいきと生きている土地です。◇今回の訪問中、大浦天主堂の記念ミサに参列することができました。私たちキリスト者の信仰は、このような歴史を引き継いでいるのだと、深く思う時間でした。(平野克己)
○代田教会会報 2015年2月号より
◇今日、代田教会創立77周年の記念礼拝をささげることができました。会衆席に座りながら、久しぶりに前牧師北島敏之先生の説教に耳を傾ける機会が与えられました。説教題は「聖霊に導かれて前進する教会」。北島先生は、15年前、代田教会から退任されるときに、「代田教会、前へ進め!」と、教会員一同に号令をかけることで別れの言葉としたと伺っています。あれから15年。北島先生は80歳半ばになられましたが、それでもなお、私たちに向かって「前へ進め」と再び号令をかけてくださったのです。それは、何よりも聖霊が私たちの歩みを前に進めようとしていてくださるからです。◇私たちの信仰。それは、主イエス・キリストに従う信仰です。それなのにいつの間にか、私たちの都合に合わせて、主イエスを自分に従わせようとしてしまいます。その時、キリストの教会は教会でなくなってしまいます。北島先生の説教に、いつの間にか志を見失いかけていた心を映し出されるようではっとさせられました。◇私の在任も満15年を終えようとしています。今日、司式をしながら、その間に天に移されていったあの人、この人のことを思い出していました。私たちの人生もまた、キリスト教会の2000年の歴史からすれば長いものではありません。だからこそ、あの人、この人の信仰を受け継いでいきたいと思います。代田教会の将来がどのようであるか、それはすべて神に委ねるほかはありません。しかし、私たちになしうることを精一杯神にささげ、教会を築いていきましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2015年1月号より
◇昨日、アメリカで親しくしてくださった方の訃報が届きました。シンマン・リー先生。韓国の初代大統領と同じ名前と伺っていますから李承晩というのが正式な名前だと思います。◇リー先生は、1931年平壌生まれ。以来、実に不思議な歩みを強いられた方です。1950年、19歳の時に朝鮮戦争が勃発。先生は両親と姉妹を北に残し、弟と2人で南へ逃げました。家族との再会はそれから28年後。その時、母は8年前に病死、牧師だった父は獄死したことを知らされます。◇やがてすぐにアメリカへ移民。神学校で学び、キング牧師の公民権運動から強い感化を受けます。卒業後、アメリカの長老教会(PCUSA)の牧師を務める傍ら神学校で教え、アメリカ・キリスト教協議会の議長、PCUSAの議長を歴任されました。◇2013年にデューク大学に滞在しながら「北東アジア和解フォーラム」の立ち上げのチームに加わった時、私たちの霊的なリーダーはリー先生でした。謙遜で、柔和で、しかし、強い方でした。祈り続けながら生きるとは、このような顔になることなのだと教えられるようでした。◇ご家族からのメッセージは次のようでした。「闘病の日々、シンマンは毎日、教会でこの世界で、人々と共に歩んだ日々に深い感謝をささげていました。自分の仕事が未完のまま終わること、しかし、神の教会として世界の正義・平和・和解のために多くの人たちが歩み続けてくれることを知っておりました」。◇今春、日本で再会する約束をしていましたが、実現できないことになりました。(平野克己)
○代田教会会報 2014年12月号より
◇占星術の学者たちが、東の方からエルサレムに来て、尋ねて回りました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。その言葉に不安を感じたのはヘロデ王だけではありませんでした。マタイ福音書ははっきりと記します。「エルサレムの人々も皆、同様であった」(2・3)。◇主イエス・キリストの降誕。それは、喜びだけではなく、不安を呼び覚ます出来事です。まことの神が王としてこの世に来られた。それは、この世界で人間がしたい放題してはならない、ということです。神が、この世界をご自分の手に取り戻す戦いを始められたのです。◇日本を代表する牧師の一人、高倉徳太郎先生は、「人生を私(わたくし)する罪」ということをよく語られました。自分の人生を自分のものと勘違いして、人を利用し、神を利用し、自分勝手に生きるのです。そのあげくに、人生の盛りを過ぎれば、生きていることに何の価値もないと自分を卑下しはじめる。けれども、私たちの人生もこの世界も神のものです。神は、私たちと世界を取り戻すために、この世界に御子を遣わされました。しかし、主イエスを知れば知るほど、人々の〈不安〉は増していきました。そうして、ついに御子を十字架に送り込んだのです。◇クリスマスは、自分の人生、そして自分の世界の主人公に居座ろうとする私たちを王座から追い払います。神を愛し、人に仕える時にのみ、私たちは健やかに生きることができるからです。私たちの人生を、この世界を、神にお返ししましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2014年11月号より
◇アドベントを迎えました。古くから教会は、 アドベントの最初の礼拝をもって、教会の1年の始まりとしてきました。教会では、主イエス・キリストの到来を待つことから、新しい年が始まります。◇もう15年以上前のこと、私が石川県金沢市にある教会に仕えていたとき、近隣の教会が協力しながら、「聖書展」という催しを行ったことがあります。市内随一のデパートで、聖書の歴史の展示とミニ講演会を行ったのです。それと同時に、厚生年金ホールを借りて、カトリック教会の信徒であるアグネス・チャンさんを招いてコンサートを開きました。◇その時彼女は、10代の頃、香港の街角で教会の仲間たちと歌った曲を久しぶりに歌うと前置きして、ギター1本で弾き語りをしてくれました。どうしても歌いたくなった、というのです。「イエスさま、早く来てよ、窓の外はたいへんなんだ」、と繰り返す曲でした。◇アドベントとは、ラテン語の「到来」を意味する語から生まれた言葉です。この時期、私たちに大切なことは、クリスマスを振り返ることだけではありません。もう一度この世界に来てくださるとお約束くださった主イエス・キリストを待つ心を、静かに育てることです。私たちは、やがて来てくださる主イエスを迎えるようにして1年を歩み始めます。◇私たちが手にしている聖書は次の言葉で終わります。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(平野克己)
○代田教会会報 2014年10月号より
◇有志の申し出により「讃美歌を歌う会」が9月から始まりました。若い日から歌い続けてきた旧讃美歌を心ゆくまで歌おうという会です。先日、第2回の集いが礼拝堂で開かれました。私はいつもながらに手際が悪くて、牧師室まで響いてくる歌声に耳を傾けながら仕事を続けていました。延々と聞こえ続ける2時間の歌声! しかも途切れることなく、弱ることなく、最後は参加者の間でわき上がる大きな拍手まで聞こえてきました。◇さらに、別の有志の申し出によって、月に1度の「代田カフェ」が5月から開かれています。特にプログラムを設けることなく、コーヒーやお茶を飲みながらおしゃべりを楽しむためのスペースです。わずか100円でお菓子とお茶を食べ放題・飲み放題。これも、牧師室まで、大きな笑い声が聞こえてきます。◇教会がもうひとつの家になる。それは牧師として、とてもうれしいことです。私たちが喜びも悲しみも共にする教会堂に、週日も人が集ってくる。そして、ここから新しくもう1度、それぞれの家に帰っていくのです。◇長崎の村を訪ねた時、その村では、こどもたちが学校の帰り道にカトリック教会に立ち寄り、堅信礼教育を受ける習慣があると聞いたことがあります。そう、大人だけでなく子どもたちも、若者たちも、ふと寄り道のできる場所であったらよいなあ、と思わされます。◇教会は牧師のものではなく信徒たちのもの、とはよく言われますが、私たちの教会がまさしくその姿を表していることをうれしく思います。(平野克己)
○代田教会会報 2014年9月号より
◇北の地にある教会の牧師たちとふれあう9月でした。1日から3日までは北海道説教塾セミナーのために札幌へ。3日間で聖書を読み、説教を作成し、互いの説教に耳を傾け批評し合う、厳しくも楽しい時間を過ごしてきました。8、9日は奥羽教区の教師宣教セミナーのために盛岡へ。与えられた講演題「希望に生きる教会の説教」のもとで、それぞれの教会で聖書を語り続けることの意味を一緒に考えてきました。◇参加者のある牧師は2つの教会を兼牧していました。1つは教会員10名。もう1つは5名。神学校卒業と同時にその地に派遣されたこの方は、4年目の秋を迎えています。両手で数えられる数で教会を支える信徒と牧師。それは特殊な例ではありません。◇営利目的の企業なら、すぐに店を閉じて撤退するべきでしょう。けれども、教会が撤退すれば、その地の人びとのために祈り続ける群れが消えてしまうのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12・32)。北の地で働く元気な牧師たち、その向こうにいる信徒たちに、主の言葉を見るようでした。◇代田教会は恵まれた教会であるという言葉を聞くことがあります。もしもそれが本当なら、主からいただいている恵みを無駄にしてはなりません。祈りをあわせ、心をあわせて、この地に生き生きとした群れ、福音に生かされてこの世に仕える群れを築き続けていく。たとえそれが遠回りであっても、遠くの地にある教会への最大の貢献になる。私はそう思っています。(平野克己)
○代田教会会報 2014年8月号より
◇「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(2コリント5・14)。8月の終わり、このパウロの言葉を思いめぐらしながら鎌倉の修道院で5日間を過ごしました。◇伝道者パウロが記した手紙は独特な文体で記されています。時に理屈ばり、時に弱さを隠さず、時に自分を誇り、時に涙を流し、時に喜びに踊り、そうして喜怒哀楽を鮮明にしながら、手紙を記したのです。キリストの愛に駆り立てられてのことでした。彼の手紙を読むと、どこからでも息づかいが聞こえてくるようにさえ思います。◇信仰とは単なる思想ではありません。信仰は人生に彩りを与える価値観や世界観でもありません。信仰とは、キリストの愛に駆り立てられ、押し出されて生きることなのです。◇修道院の礼拝堂には、十字架像があります。プロテスタント教会の牧師としてそのような感慨を抱くのはどうかと自分に問いつつも、十字架上の主イエス・キリストを仰ぎながら祈ることができるのはよいことだな、と思います。十字架像は沈黙しています。何も語ってはくれません。しかし、そこにどれほど深い、私たちへの愛が湛えられていることでしょう。◇暑い夏を乗り越えて、代田教会の秋の歩みが始まろうとしています。キリストの愛が、私たちに注がれています。いったいそれ以上に、私たちに大切なものがあるでしょうか。このキリストの愛を見損なうとき、私たちは自分を見失うことになってしまうのです。(平野克己)
○代田教会会報 2014年6月号より
◇長老会では年に1回、私を地方教会に派遣してくれています。今年は5月18日に、函館市近郊にある七飯(ななえ)教会を訪ねて、礼拝を共にしました。◇私が北陸の町にいたとき、仕えていた教会は礼拝出席が30名になれば皆で大喜びしました。教会の財政は、どのように工面しても毎年赤字でした。そのような教会が東京から説教者や講師を迎えることは実に困難です。金沢の小教会を後にして東京に向かうとき、地方教会を少しでも支えたいという強い願いがありました。◇代田教会に交通費と宿泊費を負担していただくことで、これまでずいぶんと多くの教会に招いていただくことができました。釧路、八戸、秋田、八丈島、山梨、阿波池田、津久見。いずれも小さな群れです。しかし、その教会に生きる伝道者と信徒たちに励まされる思いでいつも帰ってきます。◇七飯教会は人口3万人の小さな町にある、礼拝出席平均約10名の教会。そこに、4年前に、決して若くはない年齢から日本聖書神学校で学んだ牧師が単身で赴任したのです。横浜で生まれ育った女性。快活で積極的に、教会に仕えています。◇声をかけてくださったのは、初対面の時。「2年後なら」とお答えすると、大喜びでそれを受け入れ、今回も主日礼拝での説教のほかに、遺愛学院中学・高等学校での2回の礼拝、道南地区の牧師会での2回の講演をアレンジしてくれました。◇すでに来年は和歌山へ、再来年は大阪へ招かれています。そこでいただく元気を代田教会にも持ち帰りたいと思います。(平野克己)
○代田教会会報 2014年5月号より
◇先日ある会で20代の神学生たちと話す機会がありました。そこで、今の若者の生活感をどのように表現したらよいか、ということが話題になりました。ある神学生は、「生きるごとに感性がすり減っていく感じ」と語りました。それを引き受けて、語彙の豊かな若者がこう言いました。「ぼくたちは幼い日から夢を持つことを強制されてきた。しかも、大人が納得してくれるような夢でなければ、まわりの者たちはうなずいてくれない。けれどもそのような夢は、自分からは手の届かないところにあるものでしかない」。それをじっと聞いていたある牧師がこのように応答しました。「私たちの社会は〈自己実現〉という呪縛に囚われている。まるで、自分の夢を達成することでのみ、生きがいを感じるように誰かが仕組んでいるかのように」。そしてこう続けたのです。「〈自己実現〉は信仰の言葉ではない。私たちは、神と人とのために〈自己放棄〉することにまことの命があると信じている」。◇何かを達成することが人生の成功であるかのように私たちは教えられました。低成長期に入ったこの時代にも、私たちは若者たち、こどもたちに〈夢〉を持つことを強制しているのかもしれません。そうして手の届かない夢と現実の生活のギャップの中で、多くの者たちが苦しんでいるのです。◇「自分の命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10・38)。主イエスの言葉を思い出しながら、その話に耳を傾けていました。(平野克己)
○代田教会会報 2014年4月号より
◇小川洋二牧師を送り、裵在伊(ペ・ジェイ)先生を代田教会に迎えました。日本基督教団の規則では、補教師試験を受けるためには3年以上信徒籍を置かなければなりません。裵先生の日本での生活は10年になりますが、日本基督教団の教会で生活を始めたのは、2年前の1月に代田教会に来た時が初めてのこと。ですから、彼女の正式な名称は「信徒伝道者」です。それでも、伝道師同様に働いていただくことを期待して、代田教会では「伝道者」という呼称にしました。来年春、無事試験に合格すれば、「伝道師」となります。◇私にとって、小田島修治牧師、小川洋二牧師に続いて3人目のパートナーになります。これまでの2人の時も同じことを言いましたが、裵先生を〈修行中〉としてではなく、私とは異なる賜物をもつ伝道者として迎えてください。神の言葉はユニゾンで歌うだけでは、表現しきれません。韓国で育ち、私よりもずっと若く、しかも女性であるという、私とはまったく異なるタイプの伝道者を迎えることができたことを、心からうれしく思っています。同じコード、しかし異なるメロディーで歌い出すことによって、その響きがさらに豊かになるでしょう。◇そもそも教会全体が、合唱隊のようなものです。同じひとつの福音を、しかしそれぞれの人生によって異なる響きをさせるとき、神の言葉の豊かさが鳴り響きます。あなたの声も必要です。この町に、福音の合唱を鳴り響かせましょう。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしはあなたと共にいる」(平野克己)
○代田教会会報 2014年3月号より
◇「キリスト教説教はイエスの復活から生まれた。事の次第はこうだった。一人の弟子が身を震わせ、突然叫び、驚愕の声を上げた。『キリストはよみがえられた!』そしてその知らせを受けた者たちは歓喜し、聞いた言葉を繰り返すことで完結させ、説教にしたのである。『あの方は本当によみがえられた!』」。◇私が翻訳したリチャード・リシャー『説教の神学』の一節です。「説教を説教たらしめるものは、キリストの復活である」。リシャーはそのようにも語ります。こう言い換えてもいいでしょう。礼拝を礼拝たらしめるもの、私たちの信仰を信仰たらしめるものは、キリストの復活である、と。◇キリストの復活は、議論することではつかまえられません。あれこれ想像することでも捉えられません。ただ、あの日の弟子たち以来伝えられてきた言葉を聞くことでしか、復活は目の前に現れてこないのです。◇ですから、心の重い日に、小さな声で、しかしきっぱりと口にしてください。「キリストはよみがえられた!」重い雲が垂れ込める日に、先行きが見えない日に、自分に語ってください。「あの方は本当によみがえられた!」その時に、新しい光が差し込みます。◇もしも私たちが、私たちの知るところ、信じるところだけで生きるとしたら、それはまだ信仰の醍醐味の半分しか味わっていません。本当に大切なことは、私たちの外側から訪れます。◇イースターおめでとうございます。あなたのために、私のために、世界のために、主はよみがえられました。
○代田教会会報 2014年2月号より
◇1938年2月20日、この地において、日本基督教会世田谷伝道教会が第1回の礼拝をささげました。私たち代田教会は、その日を教会創立日に定めています。統計記録によれば、わずか2か月もない1938年度の礼拝出席は平均32名。76年前、私たちは小さな群れでした。◇第1回礼拝の日、まだ37歳だった小川治郎牧師が準備した説教の題は「我等の志を宣ぶ」。説教の内容についての記録はありません。しかし、私はこの説教題だけでも記憶し続ける必要があると思います。◇「志」という言葉の語源は、「心指す」だそうです。さらに、志という字の「士」という印は、歩き続ける足の形なのだそうです。心が指差すほうに歩いて行く、そのような言葉です。若い小川治郎牧師が、30名前後の礼拝の群れに向かい、私たちの心がどこに向いているのか、私たちがどこに向かって歩こうとしているのか、そのことを明らかにしようと訴えることから、私たちの教会の歩みが始まったのです。◇あれから76年。私たちの日常生活では、志という言葉はほとんど聞かなくなりました。そのために、私たちもまた、志という言葉を忘れがちになります。そうして、いつの間にか、私たちがどこへ向かって歩んでいるのかさえわからなくなってしまうのです。◇主イエス・キリストは、「我に従え」、と私たちを招いてくださいました。主イエスのために生き、主イエスのために死ぬ。そのことにこそ、私たちの志があります。それは私たちにも抱ける志、しかも実に壮大なる志です。(平野克己)
○代田教会会報 2014年1月号より
◇アメリカで3か月過ごし、日本に戻って2か月が経とうとしています。アメリカでの日々がずいぶん昔に思えます。それでも身体が覚えている強い感覚があります。それは、ほぼ毎日、実に長い距離を歩いたことです。◇車をもたない生活でした。その間、下宿先から大学まで片道約1時間、往復約2時間の道を歩いて通いました。つらくはありませんでした。大変だったのはたった1度、大嵐の中を全身びしょ濡れになって歩き通した時だけ。そんな時さえ、小学生の頃、水の入った長靴でジャブジャブ音を立てて歩いた楽しさを思い出すことができました。◇毎日同じ道を歩くのではありません。近道を見つけたり、回り道したり、ハロウィンの季節が近づくと飾り付けのにぎやかな住宅地を回ったり。そうしながら毎日2時間を歩くことに費やすのです。それはまったく無駄な時間。けれども実に尊い時間でした。◇エフェソ書に次の言葉があります。「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」(5・16)。これをある英語の聖書はこう訳します。“Redeeming the time, because the days are evil.”(「時を救い出せ。この日々は悪い力に囚われているのだから」)。不思議な言葉です。私たちの生きる時間は、悪に捕らわれている。だからそれを解放しながら生きていけ、というのです。いまだに不思議で読み解けない言葉であっても、私はこの言葉に、あの2時間を思い出します。あの日々は、私に与えられているいのちを自分の手に取り戻したように思える大切な時間でした。(平野克己)
○代田教会会報 2013年12月号より
◇カール・バルトという神学者がいます。偉大な神学者であるだけでなく名説教者でした。彼はその晩年、バーゼル刑務所だけで説教しました。バルトの説教を聴きたければ刑務所に入らなければならないとのジョークが生まれたほどです。◇その彼の刑務所説教に「しかし、きみたち、勇気を出しなさい!」という題のものがあります。ちょうど50年前、1963年のクリスマス・イヴに行われた説教です。天野有さんの新訳で生きた日本語で読むことができるようになりました(『聖書と説教』新教出版社)。◇そこに次の言葉があります。「確実なのはこれです。つまり、厳密に言うならば、私たち人間の生全体が大いなる聖夜である、ということです。そして、そのような聖夜の定めとは何かと言えば、それは、《あの究極の・永遠の・最後決定的な・大いなるクリスマス──人類と共なる神のあらゆる道の目標そのものであり、私たち一人一人と共なる神の諸々の道の目標そのものであるクリスマス──、まさにこのクリスマスに対して私たちが備えをする》、ということなのです」。聖夜は1年の1日ではない。私たちの人生すべてがクリスマス・イヴであるというのです。なんと楽しい言葉でしょう。◇私たちは、明日来るクリスマスを楽しみに待つようにして、人生の暗い夜にも、世界の暗黒にも、光を灯し、歌をうたい、明るいほうに目を注ぎます。「しかし、きみたち、勇気を出しなさい!」と言われた主イエスにお目にかかる日は必ず来ます。クリスマスおめでとうございます!(平野克己)
○代田教会会報 2013年11月号より
◇友人の仲立ちで、アフリカの国ルワンダの女性ジョセフィーヌさんと夕の食卓を一緒に囲みました。ある団体で講演をするために、この町ダーラムに来たのだそうです。真っ黒で美しい肌。見事に編み込んだ髪。母国ではカウンセラーとして心に傷をもつ人の話を聞き続けているとのこと。その彼女自身が爪を見つめたり指を震わせたり、少々落ち着かない様子で20年前の出来事をほんの少し話してくれました。◇この国は1994年に起こったルワンダ大虐殺と呼ばれる出来事で世界中に知られました。約100日の間、あらゆる残虐なことが行われ、50万人から100万人、つまり全国民の10~20%が殺されました。いえ、互いが互いを殺し合ったのです。この女性はそれを目撃し、自分の家族を殺された人でした。◇ルワンダではキリスト者の人口は全体の9割にも及びます。あのとき教会はいったい何をしていたのでしょう。牧師は、神父は、そして教会を担っていた信徒たちは、いったい何をしていたのでしょう。それは、ルワンダの教会だけではなく、全世界の教会に対する厳しい問いかけです。◇教会を批判し、キリストを捨て、過去を塗りつぶそうとすることもできたでしょう。しかし、ジョセフィーヌさんは多くの悲しみを担いながら、キリスト者として生きる道を選びました。そして悲しみの地に、希望を運び続けようとしています。キリストがそのような方であるからです。わたしもキリストのあとを歩きたい。若い日の思いが再び心によみがえってきた瞬間でした。(デューク大学にて、平野克己)
○代田教会会報 2013年10月号より
◇9月の終わりのこと、デューク大学神学部でアジア神学研究会主催の小さな講演会が開かれました。珍しく日本から牧師がやって来たので、私から話を聞きたいというのです。留学生対象の小さな会だろうと勝手に解釈して引き受けたところ、様子が違いました。講演会の週には、各教室の扉をはじめあちらこちらに私の顔写真入りのポスターが貼り出され、廊下を歩くのに困るほどでした。当日は50名を超える来聴者。教授たちも多くやって来ました。◇アメリカから見ると、日本の教会は実に特異です。それは、キリスト者が1%にならないという点だけではありません。むしろ、キリスト者の数が激減している現在のアメリカの教会であるからこそ、福音がいきいきと息づいている日本の小さな教会の状況に関心が寄せられているのです。◇私は、特にこの数年、これまでとは異なる視点から日本の教会を考えるようになりはじめています。もしかすると私たちは、自分たちの数の少なさに劣等感を抱きすぎたのではないでしょうか。私たちは、伝道が進展しないことに苛立ち、犯人捜しをし、自分を恥じてきたのです。けれども少数であることそのものに、神から託された責任と意味、そして世界に対する証言があるのではないか。自分たちが少数者であることをもっと積極的に、正面から、神の恵みとして受け止めなければならないのではないか、と思うのです。◇「日本のキリスト教・神の言葉はキリスト者をどのように形づくってきたか」。それが当日の講演題でした。(デューク大学にて、平野克己)
○代田教会会報 2013年9月号より
◇今日は9月9日。デューク大学に到着して2週間が過ぎました。できる限り学食で食事をとり、若い学生と机を並べ、教授の部屋を訪ね、礼拝堂にじっと座り、図書館で本と格闘し、与えられた時間を大切にしています。◇この大学の神学部には、ウィリモンとリシャー、2人の説教学者がいます。また、かつて代田教会で説教をしてくれたチャールズ・キャンベル先生も。最高に幸せな環境で、できるだけ多くを学びとって帰りたいと願っています。◇この会報が皆さんの手に渡る頃には、ホームステイの生活が始まっているはずです。ホストは、デューク大学神学部内に設置されている和解センターの責任者クリス・ライスさん。自分を「和解オタク」と呼ぶほどに、対立している場所に和解を運ぶことをライフワークにしている人です。昨年、彼が来日した時に日本を案内して以来、すっかり親しい友人になりました。10月中旬には、デューク大学のフルサポートにより、一緒に韓国へ9日間の旅をします。◇「そこではもはやユダヤ人もギリシア人もなく……、あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ4・28)。教会は、国境も民族も超えた交わりがつくられる場所です。この時代に、教会が教会らしくあり続けるとは、いったいどういうことなのだろう。それは、代田教会が、どのように歩んでいくことなのだろう。しばらく考え続けている私のテーマです。ここでしか味わえない出会いに驚き、楽しみながら、思いめぐらしていきたいと思います。(平野克己)
○代田教会会報 2013年8月号より
◇8月25日の主日礼拝をご一緒にし、その日の夕方のフライトで米国・デューク大学へ出発します。帰国は11月22日の予定です。2003年1月から12月のデューク大学での在外研修から丸10年。今回は3か月間という貴重な時間を過ごしてきます。◇研究休暇の制度をもつ大学はありますが、私の知る限り、長期の牧師不在を認める教会はほとんどありません。また、そもそもそのような無理を申し出る牧師もあまりいないでしょう。皆さまのご理解とご寛容に心から感謝しています。◇今回の渡米は、私の関心分野である説教学の世界で、この10年の間、北アメリカでいったい何が起こっているかを学ぶことに主眼があります。聖書を書斎で読むのではなく、この時代のただ中で、しかも教会の礼拝で読む時、いったい何が必要か。それが、説教学が課題とするテーマです。そこでは、聖書を読むだけではなく、時代を読み、教会を読む霊性と理性が必要とされます。また、様々な説教にふれることも欠かせません。デューク大学は、アメリカを代表する3人の説教学者が在籍している贅沢な場所です。さらにもう一つ、同大学の「和解センター」が来春から正式に開始する北東アジア和解プログラムの立ち上げの手伝いもする予定でいます。◇今回は家族と離れ、単身で過ごします。言語に、食事に、精神衛生に、苦労するでしょう。お祈りください。代田教会、そして日本の教会のために、学び、祈り、見聞を深めてきます。皆さま、3か月間お元気で! 行ってまいります!(平野克己)
○代田教会会報 2013年6月号より
◇ウィークデイの教会は子どもたちの声に満ちあふれています。現在、幼稚園在園者は111名。保護者を合わせれば、200人を超える人たちがこの敷地を出入りします。代田教会は、「教会」という集団とともに、「幼稚園」という大きな集団が過ごす場所です。◇あるアメリカの調査によれば、現在小学校に入学した子どもたちの65%は、現在存在していない職業に就く可能性が高いのだそうです。なるほど、社会は激変していきます。それに合わせて、さまざまな価値観も変化していきます。だからこそ、時代の移り変わりに揺れ動くのではなく、決して変化することのない信仰、2000年世界中の人々を養ってきた信仰に基づいた生活を幼い日々に送ることは、必ず子どもたちの力になるでしょう。◇内村鑑三が著した『後世への最大遺物』という書物があります。私たちが世を去るときに、この世にいったい何を残して行くことができるか、との問いかけから始まる名講演です。小川治郎牧師と小川豊先生は、戦後間もなく、幼稚園を設置しました。幼児教育こそが、私たちがこの地域で残していけるものだとお考えになったのでしょう。◇6月16日の臨時総会で、幼稚園園舎の新築に向かって一歩を踏み出しました。私たちが死んでなお、新しい時代を生きていく子どもたちです。その子どもたちに、信仰という「最大遺物」を残したい。そのためにも、可能な限り最良の環境を用意してあげたい。心からそう願っています。ご一緒に新しい旅をはじめましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2013年5月号より
◇「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。……霊よ、四方から吹き来たれ。……そうすれば彼らは生き返る」(エゼキエル書37・4、9)。教会員の病床を訪ねるとき、いつも心にある聖書の言葉です。◇預言者エゼキエルは、幻のうちに、間近に死の光景を見た人でした。目の前の谷は、干からびた骨でいっぱいです。そこには命の名残さえありません。しかし、神はそこで預言するように、御自分の言葉を語るように命じます。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。霊よ、四方から吹き来たれ」。すると、谷中に散らばった骨がカタカタと音を立てながら集まって来て、自分の足で立ちあがり、大群衆となったというのです。◇エゼキエルの時代、人びと心にあったのは「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」という嘆きでした(37・11)。しかし、私たちの神は、まさにその場所で、新しい幻を見せてくださるのです。◇私たちには死を回避することはできません。誰もが死に向かって生きています。それだけに、死ぬまでに事柄の決着を見たいと考えます。しかし、神は、ずっと大きな幻を見せてくださる方です。それは、死を打ち負かす、神の力です。神の霊は、それほどに確かに、力強く、私たちに働くのです。「わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしたちがお前たちのなかに霊を吹き込むと、お前たちは生きる」(37・13~14)。同じ霊を、今日、礼拝で、私たちは呼吸しています。(平野克己)
○代田教会会報 2013年4月号より
◇いま、月に1度、加藤常昭先生が「最後の授業」と定めた勉強会が開かれています。決められた聖書テキストを読み、1年かけて説教を作成していこうというのです。西は大阪や京都から、北は青森や北海道から、このためだけに牧師たちが集ってきています。◇選ばれた聖書のテキストはルカ福音書第7章36節以下。「罪深い女」と呼ばれていた女性が、ファリサイ派の人の家に入り込み、食事の席で主イエスの足に触れます。「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(7・38)。明らかに異様な行動です。しかし主イエスは、この女を受け止めます。主に対する愛をまっすぐに受け止めてくださるのです。◇主イエスを愛する。私たちの教会が長く忘れかけていることであるかもしれません。時に教会はスマートになりすぎます。この物語に登場するファリサイ派シモンのように、主イエスを迎えておきながら、当然のもてなしさえ忘れてしまうのです。そして、批判ばかりが上手になるのです。◇加藤常昭先生とのお付き合いも長くなりました。先生は今月で84歳。今なお忍耐をもって、しかし、常に厳しく、情熱的に、私たちに接してくださる方です。最後になるかもしれない授業に、この聖書のテキストを選ばれたことを感慨深く思います。ただひたすら主イエスを愛する。主に対する一筋の愛に生きる。愚直なまでに主を愛する。そのことだけが、教会を教会にしていくのです。(平野克己)
○代田教会会報 2013年3月号より
◇「キリスト教説教はイエスの復活から生まれた。事の次第はこうだった。一人の弟子が身を震わせ、突然叫び、驚愕の声を上げた。『キリストはよみがえられた!』そしてその知らせを受けた者たちは歓喜し、聞いた言葉を繰り返すことで完結させ、説教にしたのである。『あの方は本当によみがえられた!』」。◇私が翻訳したリチャード・リシャー『説教の神学』の一節です。「説教を説教たらしめるものは、キリストの復活である」。リシャーはそのようにも語ります。こう言い換えてもいいでしょう。礼拝を礼拝たらしめるもの、私たちの信仰を信仰たらしめるものは、キリストの復活である、と。◇キリストの復活は、議論することではつかまえられません。あれこれ想像することでも捉えられません。ただ、あの日の弟子たち以来伝えられてきた言葉を聞くことでしか、復活は目の前に現れてこないのです。◇ですから、心の重い日に、小さな声で、しかしきっぱりと口にしてください。「キリストはよみがえられた!」重い雲が垂れ込める日に、先行きが見えない日に、自分に語ってください。「あの方は本当によみがえられた!」その時に、新しい光が差し込みます。◇もしも私たちが、私たちの知るところ、信じるところだけで生きるとしたら、それはまだ信仰の醍醐味の半分しか味わっていません。本当に大切なことは、私たちの外側から訪れます。◇イースターおめでとうございます。あなたのために、私のために、世界のために、主はよみがえられました。(平野克己)
○代田教会会報 2013年2月号より
◇2月7日の夜と8日の朝、2人の教会員を相次いで天に送りました。牧師になって20年を超え、幾人もの葬儀を司ってきましたが、いまだに悲しみや淋しさを感じなくなることはありません。近くで過ごした方々には、どれほどの思いであろうかと想像します。◇それでも、葬儀を重ねるにつれ、私の内側で鮮やかになってきたことにも気がつきます。それは、聖書の約束の言葉です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。歳を重ねて、様々なものを失っていきます。けれども、それらが消え去ることはありません。私たちは天に宝を積んでいるのです。神がそれを蓄えていてくださる。やがて私たちは、それを受け継ぐのです。◇創立記念礼拝を終え、新しい年度に備える教会総会が開かれます。75年の間、私たちの教会のために祈り、支えてくだり、今は天にある信仰の先達を思いつつ、代田教会の歴史にご一緒に新しい1頁を加えていきたいと思います。◇やがて私たちの家系は途絶えるでしょう。また、私たちが務めた職場も閉鎖していくこともあるでしょう。しかし、代田教会は必ずそれよりも長く続いていくでしょう。私たちはここで、次の世代のために、たしかで真実な場所を築くことができます。嬉しいことです。新しい石を一つ積み上げましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2013年1月号より
◇新しい年を迎えました。『日々の聖句・ローズンゲン』の2013年の聖句聖句はこうです。14節だけが指定されていますが、本来は13節から続けて読むべきでしょう。「だから、わたしたちはイエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」(ヘブライ13:14)。◇ヘブライ書は迫害の厳しい時代に記されました。だからこそ、ここで「宿営」と呼ばれる信仰者の群れを守ることで精一杯だったことでしょう。教会の人々は、自分の平安と安息を確保しようと、安全な場所にひきこもったのです。けれども、この聖句は語りかけます。「キリスト者たちよ。辱めを受けることを恐れるのはやめよう。宿営の外に出よう。家という都に立てこもるのはやめよう。主イエス・キリストがもたらしてくださると約束された、来るべき都、神の国を探し求めて外に向かって出て行こう」。◇ある人は、教会は外側からの圧力には案外強いが、内側から簡単に崩れていく、と言いました。自己目的の歩みをはじめるとき、教会は教会でなくなります。キリスト者が自分のことだけを考えはじめるとき、キリスト者はキリスト者でなくなってしまいます。◇私たちひとりひとりから、そして、この代田教会から、神は何ごとかを始めようとしていてくださいます。それはいったいどのようなことなのでしょう。「来るべき都」を探す旅を、今年もご一緒にはじめましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2012年12月号より
◇クリスマスになると思い出す情景があります。それは大学時代、武蔵野の木立に囲まれたキャンパスで捧げられた礼拝です。礼拝が終わると学生たちにキャンドルが渡され、キャンパス内に点在する教授宅までキャロリングをするのが当時の慣わしでした。漆黒の闇、林の中に散り散りに別れていく仲間たち。光は遠くなり、歌声も小さくなり、やがて目に見えない場所へ消えていきました。◇「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。ヨハネ福音書の冒頭には暗闇の強さが意識されています。人工的な光など知らない2000年前の言葉です。光といっても、キャンドルの光のようなささやかなものを思い浮かべていたことでしょう。そして福音書が語るところによれば、世の闇は、光そのものである主イエス・キリストを理解せず、十字架につけたのです。わたしたちのクリスマスの祝いもまた、すぐに日々の生活にのみ込まれてしまう小さく、か弱いものであるかもしれません。◇しかし、主イエスは闇の力に打ち勝ち、復活してくださいました。わたしたちが迎える光は、いかなる闇によっても消し去ることのできない野太い光です。歩く足もとを照らすために、楽譜を読みながら歌い続けるために、その光があれば充分なのです。◇だから、世の闇が濃いからといって、驚きすぎないようにしましょう。私たちは確かな光をいただきました。今日も、様々な人生を歩んでいる者たちが礼拝に集い、歌をうたい続けています。クリスマスおめでとうございます! (平野克己)
○代田教会会報 2012年11月号より
◇12月3日から6日まで、アメリカのデューク大学神学部の和解センターから招待を受けて、「北東アジアの和解のための協議会」に出席します。このために月曜日に出発して土曜日に帰国。少し忙しいスケジュールになります。◇呼び集められたのは、韓国・北朝鮮・中国・日本、各国の教会関係者。中国と韓国からはこの会議のために出国することは難しく、アメリカ在住の人たちが集まります。領土問題で揺れ動いている時期です。しかしキリスト教会、神の国には国境線はないはずです。私たちがいかに手を繋いで歩んでいけるのか、そのことをたずね求めてきたいと願っています。◇和解センターの所長はクリス・ライスさん。彼の父親は、キング牧師の説教を聞いて人生を変えられ、宣教師になり、小さなこどもたちと一緒に軍事政権時代の韓国に移り住みました。“I have a dream.” 彼もまた、父が生きたキング牧師の夢、和解の夢を引き継ぎながら、教授たちを動かして和解センターを設立し、このような協議会を開くまでになりました。◇いま代田教会には、韓国・中国・スイス・マレーシアを母国とする方々が出席しています。言語を超え、民族を超えて、主イエス・キリストが私たちを一つにしてくださっています。本当に不思議なことです。ここに、新しい神の国がある。教会はその幻を思い描くことのできる場所です。◇小川洋二伝道師の按手礼式が行われている時は、飛行機の中。小川先生の頭に手を置くことができないことが心残りです。(平野克己)
○代田教会会報 2012年10月号より
◇「主イエスの弟子たちは、ガリラヤ訛(なま)りが抜けなかった。その訛りさえ用いて神はお語りになった」。私がはじめて翻訳した書物にあった一節です。神は、私たちの「裏声」ではなく、「地声」を用いて御自分をお語りくださるのです。それは、私にとって一大発見でした。◇主イエスは、小村ナザレの大工の家で育ちました。ペトロもまたガリラヤ湖で魚を獲る漁師でした。当然2人の間は方言で語り合ったことでしょう。ガリラヤの民衆に対しても、主イエスは土地の言葉、土地の発音で語ったはずです。高尚であっても生活から遊離した言葉ではなく、生活の塵と汗で黒光りした言葉でお語りになったことでしょう。父なる神は、その生活の言葉を用いて、ご自分をお伝えになったのです。◇11月11日の午後、山浦玄嗣(はるつぐ)先生を迎えて講演会が開かれます。大船渡市で医院を営む医師でありながら、福音書をケセン語(気仙沼地方の方言)に翻訳された方です。昨年秋に出版された『ガリラヤのイェシュー』では、今度は登場人物たちが、ケセン語・仙台弁・津軽弁・名古屋弁・京都弁・大阪弁・鹿児島弁など、それぞれの土地の言葉で語っています。なんといきいきとした翻訳であることか。多くの人に手にとっていただきたい、また、多くの人に山浦先生の話を直接聞いていただきたい、と願っています。◇先生は、あの日、津波で首まで水に浸かって九死に一生を得ながら患者の世話をしたとも聞いています。いったいどんな話をうかがうことができるのでしょう。(平野克己)
○代田教会会報 2012年9月号より
◇「あとまだ何年か、そしてそのあとは? 人生の価値はその内容──それも他人にとっての──にしかない。私の人生は、他人にとって価値がなければ死にも劣るものである。しがたって、──この広漠たる孤独のうちにあって、──みんなのために奉仕すること。したがって、私がこれまでに与えられたものは、なんと理解を絶して大きいことであろうか、そして私が《犠牲》として捧げねばならぬものは、なんと取るに足らぬことであろうか! 御名を聖となさしめたまえ、御国をきたらしめたまえ、御意(みこころ)を行わしめたまえ」(『道しるべ』より)。◇飛行機事故による死後、ノーベル平和賞を受賞したスウェーデン人、ダグ・ハマーショルドの文章、しかも国連総長の在職中、死の3年前に記された文章です。この方が主の祈りを心に生き、死んでいったことがわかります。◇主の祈りは生活の中で祈られるべき祈りです。私たちは礼拝ごとに主の祈りを祈ります。そのようにして、普段の生活の中でこの祈りを忘れないように「習慣化」しているのです。神は、主の祈りを祈りつつ、しかも、主の祈りを生きる人々を求めておられます。◇信仰。それは、この私が神を求めるということに留まりません。神が、この私を求めていてくださるのです。私たちの周囲に生きる人々のために。そうでなければ、私たちの人生は「死にも劣るもの」となってしまうからです。主イエスは主の祈りをお教えくださる直前にこう言われました。「あなたがたは地の塩である。世の光である」。 (平野克己)
○代田教会会報 2012年8月号より
◇「神よ、あなたの静けさの中に、わたしを置いてださい」。いったいどこで学んだ祈りの言葉だったでしょうか。時々思い出しては、この言葉をわたしの祈りの言葉にします。◇わたしたちの心の中はいつも騒音でいっぱいです。さまざまな言葉が鳴り響き、しかもその言葉は心を満たしてくれないどころか、不安に誘い、わたしたちは散らかった思いでいっぱいになります。◇その不安と混乱から逃れようとして、神に呼びかけてみます。いつのまにか緊張してこわばってしまった背筋を伸ばし、腕を伸ばし、膝をまっすぐに立てて、神の名を呼んでみます。けれども、答えはありません。神は黙っておられます。しかし、その沈黙は、恐ろしいもの、冷たい沈黙ではありません。あたたかく、しかも、何も欠けることのない静けさです。だから安心して、その静けさの中に身を浸すようにして祈るのです。「神よ、あなたの静けさの中に、わたしを置いてください」。そして、その静けさの向こう側から、神がささやきかけてくださいます。◇礼拝の喜びは、この静けさにあるのではないかと思います。わたしたちの礼拝は賛美歌を歌います。聖書に耳を傾けます。そういう意味では言葉に満ちています。けれども不思議なことに、たくさんの言葉を聞き、歌をうたいながら、わたしたちの心は静かになっていきます。そして、新しい思いが訪れるのです。◇「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」(詩編131・2)。(平野克己)
○代田教会会報 2012年6月号より
◇待望の訳書が出ました。『説教者キング・アメリカを動かした言葉』(教団出版局)。アメリカでお世話になったリチャード・リシャー先生の書物です。翻訳して日本に紹介したいと願っていましたが、あまりにも厚くて頓挫していたところ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア研究の第一人者である梶原壽先生が驚異的な情熱で完訳されました。全部で554頁、そして8400円(!)。誰にでもお薦めできる書物ではありません。しかし、キングを知る上で欠かせない1冊です。◇キング牧師、そして彼の数多くのスピーチはよく知られています。日本でも、“I have a dream”スピーチを暗記させる学校も少なくはありません。インドの指導者マハトマ・ガンジーから非暴力の思想を学んだ、と説明されることがありますが、キング牧師のスピーチは、普遍的ではなく極めて特殊なもの、聖書と教会に深く根ざした「説教」であることを、膨大な資料から著者は明らかにしていきます。キングは、主イエスの山上の説教から多くを学びました。キングのスピーチは、町で市民相手に行われた説教でした。その説教がアメリカを動かしたのです。◇私たちが聖書に固着して〈特殊な民〉として生きる時──地の塩・世の光として生きる時──、逆に多くの人の心に訴えることができる。そんな希望を、歴史の事実から教えてくれる書物です。◇「私には夢がある」。代田教会も神がくださる夢を見続ける教会でありたいと思います。そして、私たちの特殊な夢が、この町にとっても大切なのです。(平野克己)
○代田教会会報 2012年5月号より
◇「宗教というのは楽しいと思うな。宗教が抹香臭いっていう感じになったことはないです。本当に。宗教っていうのは、美しくて楽しいものですね。教会に行くっていうのは、あんなに楽しいことはないな。そこに神の視線が集中的に集まっているっていうかな、そういう感じがして」。私が編集主幹を務める雑誌『Ministry』の最新号に登場していただいた加賀乙彦さんの言葉です。◇大学時代、出版されて間もない加賀さんの小説『宣告』を繰り返し読みました。精神科医として多くの死刑囚と面会を続けた経歴を持つ方です。私がようやく20歳になろうとしている頃。死を間近にした人たちがいったいどのような心持ちでいるのかをのぞき込むように、『死刑囚の記録』(中公新書、1980年)と合わせてむさぼり読みました。◇「バー・メッカ殺人事件」の犯人正田昭をモデルにした『宣告』には、プロテスタントとカトリック、2人のキリスト者死刑囚が登場します。深い罪を犯し、しかも死を前にして、信仰は夢見心地になることでも理屈を捏ねることでもありません。呼吸するのと似て、肉体に深く刻み込まれたことなのです。殺人、そして死刑。その深い闇にも、赦しの光が上から降り注いでいる。不思議な慰めに満ちた小説でした。加賀さんがカトリック教会で洗礼を受けたとの知らせを聞いたのは、私が大学卒業後、神学校に入学して間もなくのことでした。◇私たちは教会で、同じ光の中に座ることができる。それは本当に、美しくて楽しいことですね。(平野克己)
○代田教会会報 2012年4月号より
◇代田幼稚園の入園式が行われたその日の夕べ、95歳で逝去したKさんの前夜式を行いました。教会幼稚園に迎えたのは、これから90年生きていく子どもたちなのです。90年後は22世紀。彼らは、私たちが足を踏み入れることができない時代を生きていきます。◇教会はいつの時代も幼な子の養育を大切にしてきました。主イエスが次のように言われたからです。「わたしの名のためにこのような子供の1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マルコ9・36)。主イエスを受け入れるとは、心の中の出来事、抽象的なことではありません。可愛らしくても時には厄介、素直でいても時に頑固な子どもたちを、大切に抱きとめることです。◇かつてはこの地域の教会にも複数の幼稚園・幼児施設がありましたが、少子化とともに、次々に閉園していきました。だから、代田幼稚園の存在意義はますます重要性を増しています。幼い日に神を知る、いえ、もっと正確に言えば、神に愛されていることを知って育つことは、素敵なことです。Kさんの人生もそのようなものでした。関東大震災や第二次世界大戦、様々な出来事がこの方の生涯にもありました。けれども、可愛らしくおてんばで、心優しく人をもてなす喜びに生きた方でした。自分が愛されていることを知ることこそ、生きる力になるのです。◇会報に幼稚園コーナーができました。これから子どもの写真が紙面のひと隅に登場します。幼な子たちを、みんなで祈り育てていきましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2012年3月号より
◇3月11日、東日本大震災からちょうど1年の日が日曜日になりました。そこでこの日の礼拝を、「東日本大震災記念礼拝」として行いました。第1回は9時から、幼稚園の子どもたちといっしょに。第2回の10時半からの礼拝には、美しい祈りの歌声に耳を澄ませながらの礼拝でした。◇ささやかながらも、ポスターを街路や駅に掲示しました。多くの方が集まりました。ことに9時からの礼拝は約170名の出席でした。子どもたちといっしょのクリスマスイブ礼拝よりもずっと多い数です。祈りへの思いが、多くの人々の心にあったのでしょう。◇私たちの世界に、そして人生には、さまざまな出来事が起こります。その時、それまで用いていた言葉が通用しなくなってしまうことがあります。だからこそ、聖書の言葉に耳を傾け続けたいという思いが強くなります。聖書は、2000年の間、時に重苦しい歴史にも耐えて、光を放ち続けてきた書物です。◇2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが起こった次の日曜日、あるアメリカの牧師は次のように語りました。「生にあっても死にあっても、死を超えた生にあっても、そこにはひとつの言葉があるのみ。終わりにも、はじめと同じ言葉があるのです。神によって光は闇の中に輝く。そして、闇はこれを打ち負かしたことはない」。この言葉に、わたし自身、どれほど慰められたことでしょう。そして私たちは闇の子ではなく、光の子です。闇の力にたじろがず、神の光を掲げて歩き続けていきましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2012年2月号より
◇紀元前13世紀頃、イスラエルの民がエジプトを脱出した時、その数は壮年男子だけでおよそ60万人であったと聖書は報告します(出エジプト記12・37)。世田谷区の人口は約84万人ですから、おそらくその2倍以上。まさしく民族大移動です。けれども、歴史資料の豊富なエジプトから、いまだその記録は発見されていません。そこで、聖書学者たちはこう想像します。おそらく事実は、歴史にも書き留められないほど、ごく少数の人々がエジプトを脱出したのではないか。しかしやがて、その少数の人々が語る歴史を、多くの者たちが「自分の歴史」として語り継ぐようになったのだ、と。◇2月19日、代田教会創立74周年の記念礼拝をささげました。現在の代田教会には創立時のメンバーはいません。教会の50年前を知っている人たちの数も少なくなりました。私たちの大部分は、代田教会の旅路に、後から加わった者たちです。しかしそれでも、この教会の歴史を「自分の歴史」として語り継いでいきましょう。神の民の歴史とは、自分が見聞きした歴史ではなく、神御自身が導いてくださった歴史であるからです。◇創立記念礼拝で献金の時に、このような祈りがささげられました。「この代田教会に多くの者が加わってきた。そして私たちは、ここから多くの者たちを天へと見送ってきた。その命の系譜に私たちも加わっていけますように」。ああ、そうです。私たちの群れに堂々たる神の命が流れ込んでいます。その命を引き継ぎ、次の世代をこの群れに迎えていきましょう。(平野克己)
○代田教会会報 2012年1月号より
◇いま主日礼拝では、山上の説教を読み始めています。その冒頭で、主イエスは、「幸いである」との言葉を幾度も繰り返してくださいます。私たちに祝福を告げてくださるのです。◇しかし、そこで語りかけられているのは、決して目に見える幸いを生きている者たちではありません。「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、そして「義のために迫害される人々」。それは、いつでも自分の欠けを知る人々、悲しみを知り、痛みを知り、それでも神の義を求め続けている人々です。しかし、主イエスはそのひとりひとりにまなざしを注ぎながら、「あなたは幸いだ」と告げてくださるのです。◇「祝福を確信しよう」。加藤常昭先生が繰り返して語る言葉です。その確信は、自分の中に渦巻くわざわいを数え上げる心にもあらがって、主イエスの声に耳を傾け、十字架のお姿を仰ぐことから生まれます。主イエスの言葉は、口先の無責任な言葉ではありません。主は、私たちが受けるべき呪いをすべて受け止めてくださいました。それが十字架です。だから、私たちには呪いの一片たりとも残されていません。そうです。私たちは災いに満ちた人生を歩むことは決してありません。主イエスが、私たちの悲しみをも、必ず喜びに変えてくださいます。そのことを信じましょう。もっと深く、もっと大胆に確信しましょう。◇「あなたに望みを置き、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう」(詩編25・21)。(平野克己)
○代田教会会報 2011年12月号より
◇主イエス・キリストが12月25日に生まれた証拠はありません。この日をクリスマスに定めたのは、第4世紀の教会が異教の祭り、冬至の日の〈太陽神の祭り〉を取り入れたのだそうです。たとえそうとしても、夜が最も長いとき、しかも1年の終わりに、神の御子の降誕を祝えるようになったのは本当にうれしいことです。◇2011年。東日本大震災の年として記憶される1年でした。毎日の生活でも、喜びの知らせを耳にするよりも、悲しみや不安の知らせを聞くことのほうがずっと多いように思えます。しかし、この年を振り返る時、その1番最初に、クリスマスの光を見ることができます。そして、2012年を望み見る時にも、その最初にあるのはクリスマスの光です。◇3月まで長老を務めたSさんが、12月1日に天に召されました。この1年半、死期を熟知しながら、それでも淡々と丁寧に日常生活を送られました。歩行が困難になり、言語を失いはじめたこの夏、私宛にメモを遺してくださいました。「天に召されることは悲しいことばかりではありませんよね。むしろ喜びであり、それは神さまのまったく新たな世界に入れていただくことであります。静かに受け入れたいと思います」。いかに暗い力であっても、主イエスと共に生まれた新しい命を打ち倒すことはできない。そのことを間近に見るようでした。◇「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1・5)。この言葉は、おとぎ話でも気晴らしでもありません。真実な言葉です。クリスマスおめでとうございます。(平野克己)
○代田教会会報 2011年11月号より
◇「生きている鳥たちが/生きて飛び回る空を/あなたに残しておいてやれるだろうか/父さんは/目を閉じてご覧なさい/山が見えるでしょう/近づいてご覧なさい/辛夷(こぶし)の花があるでしょう」。高石ともやがうたった「私の子供たちへ:父さんの子守唄」という歌です。◇教会はいろいろなことを教えてくれましたけれど、みんなで飲む楽しさを教えてくれたのも教会の仲間たちでした。大学に入ると青年会の先輩がよく飲み屋に連れて行ってくれたのです(こんなことを書いてもよいのか、と思いつつ)。カラオケのない時代。場がなごむと、それぞれが「持ち歌」を披露しはじめます。その時、年長の神学生がうたってくれたのがこの歌です。彼のあだ名は「パパ」。すでに結婚して、生まれたばかりの子どもがいました。◇代田教会の11月。バザーそして幼児祝福式に子どもたちの声が満ちあふれました。その一方、福島原発の原子炉解体まで30年以上かかるとの報道を聞きました。私たちが死んでなお、この子たちは生きていきます。柔らかな手、柔らかな足、無垢なまなざし。この子たちに何を残してやれるのでしょう。◇「今回の災害は日本人の挫折ですね。第二の敗戦と言ってもいい」(並木浩一)。「神の支配に倣うようにして地を治める、そういう人間のあり方というのを、今改めてかんがえる時なのでしょう」(近藤勝彦)。あの震災、特に原発事故から、私たちの社会は、教会は、何を学ぶのでしょう。私たちは子どもたちのために、何ができるのでしょう。(平野克己)
○代田教会会報 2011年10月号より
◇若者たちがいつもよりも多く集った水曜祈祷会で、詩編第42編、43編を読みました。2つの詩編にまたがって、3回リフレインされる言葉があります。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/わたしはなお告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。/わたしの神よ」。◇私にとっての若い時代の苦しみ、それは心が安定しないことでした。右に左に、上に下に心が動き回るのです。信仰もまたそうでした。聖霊の息吹に舞い上がったかと思えば、すぐに墜落する。そうして心が自分を引きずり回すのです。◇その時、この詩編の言葉は、私にとって宝でした。詩人は自分の魂に命じます。「なぜうなだれるのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め」。そうして、自分の魂をのぞき込む病と戦うのです。◇信仰とは、心の中の出来事ではありません。そんなちっぽけであやふやなものではないのです。神は、私たちの心の中にではなく、私たちの外側にいてくださる。救いは心の内側の変化によってではなく、私たちの外からやって来ます。そのことを知ったときに、本当に明るい思いに満たされました。◇日照りに萎れた木々は根から地下水を吸い上げ、葉にわずかな露を集めて、ゆっくりとよみがえっていきます。そのように、心の浮き沈みに抗いながら、自分のいる場所にしっかり足を着けて、背筋を伸ばして、手を広げながら、神を仰ぐのです。「わたしはなお告白しよう。/『御顔こそ、わたしの救い』と。/わたしの神よ」。(平野克己)
○代田教会会報 2011年9月号より
◇9月から主日礼拝でマタイ福音書を少しずつ読みはじめました。私にとって、礼拝説教でこの福音書を読み進めるのは初めてのことです。それだけに、私自身わくわくする気持ちがしています。◇新約聖書には4つの福音書が収められています。その中で最初に記されたのはマルコ福音書です。けれども初代教会の人たちは、マルコ福音書があれば十分とは考えませんでした。どうしても自分たちの言葉で主イエス・キリストの福音を語り直したくなったのです。そうして、他の3つの福音書が生まれることになりました。◇主イエス・キリストが生きておられるとは、変わりゆく状況の中で、同じ言葉で、しかし新しい響きをもって、主が語り続けてくださるということです。マタイが直面した新しい状況において、マルコ福音書が伝えた主の言葉、あるいは人々の記憶の内にとどまっていた主の言葉が、新しい音色を奏ではじめたのです。マタイはそれを聴き取ってこの福音書を記しました。主は今も生きて、語り続けていてくださいます。この福音書が代田教会で語り直されるとき、どんな音色を聴かせてくれるのでしょう。◇ある人が、教会は常に前衛(アヴァンギャルド)だと言いました。時代の最先端の文化が教会の中にあるというのです。新しい言葉を耳にする者は、生き方、そして死に方さえ新しくされます。代田教会の中にも、この最も新しいことが始まっています。福音書を読むとは、自分たちの新しい姿を発見することでもあります。(平野克己)
○代田教会会報 2011年8月号より
◇先月開かれた臨時総会の決議に基づき、いよいよ小川洋二伝道師を仙台に派遣します。小川伝道師は、東北教区被災者支援センターの専従者として9月1日から12月31日まで、4か月にわたって働く予定です。◇長老会では、この大震災にあって、代田教会に何ができるだろう、何が求められているだろう、と話し合いを積み重ねてきました。緊急募金を行い、ボランティアの受け入れ口を紹介し、7月18日には聖歌隊主導のチャリティ・コンサートも開くことができました。その中で、今回の派遣についても、丁寧な話し合いを積み重ねてきました。◇私たちの教会が複数の教職を置くようになってから、6年目を迎えています。もはや伝道師がいなければ、教会活動は円滑には進みません。それでも、ほんとうに疲れている被災地の教会の様子、そして牧師たちの様子を知るにつれ、この重荷をほんのわずかでも共に担わせていただきたいと思います。小川伝道師を派遣することで、代田教会と被災地にある教会との絆がさらに強く、太くされていくことでしょう。◇小川伝道師は、仙台市内にある被災者支援センター「エマオ」で、ボランティアの受け入れを中心として、様々な新しい働きに携わります。人と人との間に立つ大切な仕事となるでしょう。また、9月から12月の4か月は、厳しい冬に向かう時期です。新しい支援の道を模索しなければならなくなるでしょう。健康が十分に支えられ、よい知恵が与えられるようにお祈りください。 (平野克己)
○代田教会会報 2011年6月号より
◇信仰生活の秘訣、それは沈黙を大切にすることです。余計なおしゃべりをせず、余計な声に耳を傾けず、じっと黙る時間を大切にすることです。◇ただ黙っていればよいというわけではありません。口を閉じても、心の中は様ざまな言葉ですぐに一杯になります。火を見つめるとき、心の中が静まるのを味わった経験をした方もあるでしょう。それと同じように、口を閉じたら、今度は心を神の静けさの中に向けていく。◇神さまは大声ではお話になりません。静かな声でお話しくださいます。その声が聞こえるように、耳を澄ませるのです。◇それまで自分が抱いていた先入観、揺れ動く感情、批判する心、興奮を求める魂、自己弁護の言葉。そうした平安をもたらさないものは少しの間脇に置いて、そっと主の名を呼んでみてください。散歩しながらでも、単純な仕事をしながらでも、そのことはできるはずです。「主イエス」と、注意深く、心を込めて、主の名前を呼ぶのです。そうして、じっと耳を澄ませ、心を注ぎだしてみる。◇それが可能であれば、聖書の短い一節を心の中に繰り返しながら、1日を過ごしてみてください。そうすると、新しい思いが湧いてきます。◇理屈でかためられていても、実は中身のない言葉、興奮に任せた言葉ばかりに、私たちの心を占拠させてはなりません。きっと静けさの中から、神の言葉が新しく立ち上がってくるでしょう。 (平野克己)
○代田教会会報 2011年5月号より
◇水曜祈祷会では「ニケア信条」を終えて、「バルメン宣言」の学びを始めました。1933年、ドイツにおいて、ヒトラーとナチ党が独裁体制を確立しました。教会もまたその時代精神に飲み込まれていきました。しかしその翌年、「告白会議」と呼ばれる集いが開かれ、教会の信仰告白をもう一度新しく言い表すことから、教会を守るたたかいを開始したのです。その会議で採択されたのが、この「バルメン宣言」と呼ばれる信仰告白の文章です。◇もう8年前、アメリカの長老教会で過ごしたとき、この文章が「ニケア信条」「使徒信条」「ハイデルベルク信仰問答」などと一緒に、自分たちの教会が大切にするべき文章に指定していることを知って驚きました。私たちの教会は2000年の歴史を持つ教会、世界の教会と切り離されて存在しているわけではありません。自分が信じ・感じ・理解し・体験していることが、信仰のすべてではないのです。生き生きとした文章に心を躍らせながら、わたし自身準備をしています。◇複数回礼拝の開始、そして、幼稚園園舎の建て替えについての模索。私たちの教会は、確かに新しい時代への節目を刻み始めています。だからこそ、教会とはどのような場所なのか、私たちの信仰とはいったい何であるのか、ということを昔からの文章に学ぶことが必要です。◇出席できる方は多くはないでしょう。それでもぜひこの時、少し無理をしてでも祈祷会にご出席ください。教会に託されている宝を知ることは、実に楽しいことです。(平野克己)
○代田教会会報 2011年4月号より
◇一昨年の秋、代田教会のエマノン会(高齢者の集い)にお招きした小塩トシ子先生が編訳された、美しい詩集が出版されました。『歓びの歌、祈りの心』(日本基督教団出版局)。23編の詩が美しい写真と共に収められています。◇そこに、小塩先生のすばらしい新訳で、ラインホルド・ニーバーの有名な祈りが紹介されています。題から魅力的です。「心を静める祈り」。大震災の影響でしょう。心の落ち着かない日々が続くからこそ、上等なお菓子を舌の上で転がすように、祈りの言葉を味わいました。「神よ、どうかわたしたちにお与えください/変えることのできない事柄には それを落ち着いて受け容れる恵みを/変えるべき事柄には それを変える勇気を/そうしてこの二つを見分ける英知を。」◇神さま、変えることのできない事柄に、わたしは慌てふためいています。けれども、わたしは限界のある存在です。だから、身を低くして、落ち着いてそれらを受け容れることができるよう、あなたの恵みを与えてください。◇変えるべき事柄に対してわたしは臆病であり、すぐに目と耳を閉じます。けれども、変えるべき事柄はわたしの力を待っています。だから勇気を与えてください。◇そして、変えることのできない事柄に気を奪われ、変えるべき事柄から逃避する愚かさの罪から、わたしを救い出してください。この二つを見分ける英知をください。神さま、わたしが変えるべき事柄とはいったい何なのでしょう。そして、変えられない事柄とは、いったい何なのでしょう。(平野克己)
○代田教会会報 2011年3月号より
◇大震災後、2回目の主日礼拝を終えてこの原稿を記しています。この出来事の意味を問い続ける日々を過ごしています。あまりにも多くの命が一瞬のうちに失われました。また、今日の時点で福島原子力発電所の被害がどれほど進んでいくのか、予断をゆるさない状況にあります。◇「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ローマ8・22)。伝道者パウロは人間のうめきだけではなく、被造物全体のうめきの声を聞くことのできる人でした。しかしそのうめきを、末期のうめきではなく、産みの苦しみのうめきとして聴き取りました。そうです。この出来事は、終焉ではありません。この出来事から、何かが産まれようとしているのです。だから私たちは、この大きな悲しみから何かを産ませようとしてくださる神を、ご一緒に待ちましょう。教会に連なる者として、私たちひとりひとりが、それぞれの場で何事かを産み出す歩みを祈り願いましょう。◇今日の礼拝で作家W・フォークナーの言葉を紹介しました。「もしも、悲しみか虚無か、そのどちらかを選び取らざるをえなくなるなら、私はいつでも悲しみのほうを選ぼう」。私たちは神の前で悲しみ続けてよいのです。悲しみを忘れる時、私たちは虚無に陥ってしまいます。◇主イエスは約束してくださいました。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」。(平野克己)
○代田教会会報 2011年2月号より
◇代田教会で神学生時代を過ごした洪徳憙先生の按手礼式に出席しました。洪さんが仕える洗足教会は満堂の会衆。喜び溢れる時間でした。1人の牧師が生み出されるために、どれほど大きなことを神がなさり、どれほど多くのキリスト者が関わることでしょう。代田教会に集う私たちもまた、そのために用いていただけたことを嬉しく思いました。◇私の着任から11年の間に3人の神学生たちが代田教会を巣立ち、牧師になっていきました。吉岡喜人さん(南三鷹教会牧師)、片岡宝子さん(鎌倉泉水教会牧師)、洪徳憙さん(春から洗足教会主任牧師に就任します)。そして小川洋二さんは代田教会伝道師に着任し、来秋の試験に備えています。現在は、上山耕平さん(東京神学大学大学院1年)、金眞圭さん(同学部2年)の2人が教会生活をしています。◇私自身、25年近く前に、1年間の神学生生活を代田教会で送りました。ネクタイを締めることなどなく、いつも汚い格好で中型オートバイで教会に通いました。北島敏之先生も皆さんもそんな私を温かく迎え入れてくださいました。屹立として神の言葉を伝える北島先生のお姿から、そして背筋を伸ばして熱心にしかし淡々と教会に仕え続けている皆さんの後ろ姿から、どれほど多くを教えられたことでしょう。◇代田教会は、初代牧師小川治郎先生の時代から神学生を迎えてきました。1人1人が日本全国で伝道の業にいそしんでいます。創立73周年の記念礼拝をささげる今月、そのことをあらためて思わされます。(平野克己)
○代田教会会報 2011年1月号より
◇「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12・21)。『日々の聖句Losungen』が選んだ年の聖句、この小冊子を開くたびに語りかけてくる神の言葉です。◇「この世に悪は存在しない」というのではありません。悪は確かに存在する。キリスト者として生きるとは、悪と戦う群れの一員になって生きることです。しかもこの勝負は、勝つことのできる戦い、負けてはならない戦いです。◇けれども、「正義をもって悪に勝ちなさい」というのではありません。自分の正義に頼るとき、私たちは悪の術中にはまります。いつも恐ろしく思うことは、主イエスを殺したのは神を知らない者ではなく信仰者たちだったと福音書がはっきり記していることです。彼らは自分こそ正義の体現者だと確信して、主を殺したのです。◇聖書の言葉はこうです。「善をもって悪に勝ちなさい」。この「善」について、パウロは「キリスト者の生活の十戒」と呼ばれる10の徳目を記します。1.兄弟愛をもって愛し、2.尊敬をもって相手を優れた者とし、3.怠らず励み、4.霊に燃え、5.主に仕え、6.希望をもって喜び、7.苦難を耐え忍び、8.たゆまず祈ること。そして、9.貧しいキリスト者たちを助け、10.旅人をもてなすこと(ローマ12・10以下)。悪に勝つ唯一の手段は自分の弱さと戦い、愛に生きる強さを主からいただくことなのでしょう。◇正義は大切です。しかしそこに愛がなければ、それは暴力に変わってしまいます。主イエスと一緒に、自分の内外にある悪と戦う1年でありたいと願っています。(平野克己)
○代田教会会報 2010年12月号より
◇クリスマスになると、私が大学時代に憧れていた教会の先輩のことを思い出します。ボート部で鍛え上げた屈強な肉体と、中世哲学を専攻する教養の持ち主でした。私が大学を卒業し、神学校に進み、そのまま母教会で伝道師に招聘された頃には、3年ほど年輩の彼は商社に勤務。激務の中で教会生活から遠ざかっていました。◇再会の時は、思いがけなく訪れました。彼は急性白血病を発症。伝道師として病室に訪ねたのです。ボートで身に着けた肩の筋肉はすっかりなくなり、肉がそげ落ちた頬の中で二重の目が光っていました。思い出されるのは、「平野君、彼のことをよろしくね」と、主任牧師に依頼されながら、ベッドの傍らに行くと祈ることも、聖書を開くこともできず、沈黙の気まずさを埋めるためだけに口を開いた、苦い記憶です。◇やがて、素敵な奥さまと幼い2人の子どもを遺して亡くなったのはアドベントの季節。不治の病であることは隠されていたはずですが、その枕元からノートが出てきました。葬儀の折、そこに、このようなことが記されていたと聞きました。「ぼくはもうベツレヘムへは行けないだろう。それどころか、この部屋を出ることさえできないかもしれない。しかし、そのぼくのために、この世界のために、主イエス・キリストがお生まれになった。この世を罪から贖うために」。◇クリスマスは静かな祝いです。わたしたちが神から捨てられなくてよいように、神が御子を与えてくださいました。クリスマス、おめでとうございます。(平野克己)
○代田教会会報 2010年11月号より
◇アドベント。それは〈到来〉という意味です。二千年前に来られた主イエス・キリストが、今、私たちのもとに到来してくださる、私たちを訪ねてくださるのです。しかしその時、私たちは本当に自分がいるべき場所にいるでしょうか?◇ある人が、その様子をユーモアをもってこう言いました。「私には今晩、来客があります。私が家にいるといいのですが」。私たちはしばしば自分のところ、自分の家にいません。自分の考えや感情と共にどこかにいたり、自分の考えと共にあてもなく歩き回っています(A・グリューン『クリスマスの黙想』より)。◇この文章に出会って、ハッとしました。その通りです。もしかすると、私はいるべき場所でないところに出かけ、そこで主イエスを待っているのです。主イエスは、私の家を訪ねてくださっているのに。◇だから主イエスは、伝道の最初の言葉として言われたのでしょう。「悔い改めなさい」、と。この言葉には、「帰って来なさい」という意味があります。主イエスは、地上に来られ、私のいるべき場所に到来され、「帰って来なさい」と呼んでいてくださるのです。主イエスに会えるかどうかは、主イエスにかかっているのではありません。この私にかかっているのです。◇クリスマス。それは、帰る日です。私たちが本当にいるべき場所へ帰る日です。その場所は、時に、頭の中で思い描いて捜し回っている理想の場所よりも、はるかにみすぼらしく、貧弱であることでしょう。それでも、その場所は、幼子が生まれた馬小屋なのです。
○代田教会会報 2010年10月号より
◇「わたしたちは…神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(?ヨハネ3・19)。『日々の聖句・ローズンゲン』の10月6日の聖句です。ローズンゲンの喜びは、御言葉と思いがけない出会いをすることができることです。◇それにしても不思議な言葉です。「神は、すべてをご存じ」であれば、私たちは「神の御前で安心」できないように思えます。心に責められるところがあればなおさらです。あの嘘やこの意地悪。あの嘘やこの貪欲。生ゴミに消臭剤をかけて蓋をするように、私は心の奥底に罪をしまい込んでいます。この世で最も恐ろしいものは心の中にあるのです。しかも、日々頭をもたげてきて、私をかき回すのです。◇神はすべてをご存じです。それでも、私は神の御前で安心できる。神が、私の罪をお問いにならないからです。神は、私の罪を、主イエスに対してお問いになったのです。だから、あれほどキリストは十字架でお苦しみになったのです。そして、キリストの苦しみのゆえに、この私はすべて赦されている。◇自分の惨めさを知ることと神の赦しを知ることが、キリストの十字架の上でひとつになっている。こんな気分は他のどこにもありません。だから、この感覚をうまく言葉にすることはできません。それが、礼拝で味わう不思議な感覚、不思議な安心なのです。だから、私たちは言葉にする代わりに歌うのです。アメイジング・グレイス、驚くべき恵み、と。
○代田教会会報 2010年9月号より
◇「わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。……わたしはあなたがたを友と呼ぶ。……互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15・15,17)。ある人が、教会は「友情の共同体」であると言いました。主イエスは私たちを「友」と呼んでくださいました。私たちと友情を結んでくださったのです。そして、私たちが互いに「友」と呼び合える愛の絆を結ぶようにと命じてくださるのです。◇教会では9月から12月まで名札をつけて過ごすことにしました。この数年、ずいぶん新しい顔が増えました。名前も顔もなかなか記憶できません。そこで、互いを知り合う手立てになればと願ってのことです。◇教会で出会う仲間は不思議です。春にはマラウィから、夏には韓国からゲストを迎えました。それでも会ってしばらく経つと、もう10年昔から知り合いであるような不思議な思いになります。また、小さな子ども、若者、歳を重ねた者たちが、親しく隣に座ることができます。◇名札をつけて過ごす4か月。まだ話をしたことのない方と、ぜひ知り合いになってください。できれば、階下で昼食をご一緒してくださると嬉しく思います。都会の冷たさに慣れ、教会でも互いの間に隔ての壁を築いたままでいるなら、とても残念なことです。◇神の子は私たちを友と呼んでくださいます。そして私たちの手を引き、私たちを互いに紹介してくださるのです。特に世代を超えた友情が築けるとよいですね。そのような集いは、教会にしかないのですから。
○代田教会会報 2010年8月号より
◇「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」(エフェソ5・16)という言葉が、英訳聖書には”Redeem the time”(リディーム・ザ・タイム)と記されている。先日、そのことを初めて知りました。「贖う(リディーム)」とは人質を救出するという意味です。ですからこの言葉はこう訳すことができるのです。「この悪い時代に囚われているあなたの時間を救い出しなさい」。◇私たちが平安を失う理由のひとつに「すぐに答えを出さなければいけない」という強迫観念があります。不安、苦痛、摩擦。それらの不快な事柄はすぐに取り除かれるべきだと、この時代は私たちに教えます。だから私たちは生活の問題、社会の問題をすぐに片付けたくなる。けれども聖書は、性急に答えを求めさせるこの時代から「時間を救い出せ」と言うのです。◇こういう言葉があります。「する必要のあることのためには、いつでも十分な時間がある」。もしも時間が足りなくて仕残してしまうことがあるとするならば、それはもともと私がする必要のないことなのです。そうです。それは誰かが、そして神が行ってくださる仕事なのです。◇私たちの人生、私たちの世界を完成するのは、私たちではありません。神様です。私たちは時代から自由になり、負うべき小さな忍耐を静かに負えばよいのです。◇「する必要のあることのためには、いつでも十分な時間がある」。そのことを知るとき、「時をよく用いる」ことができる。子どもが蝉の抜け殻を見つけたときのような、大発見をした思いがしました。
○代田教会会報 2010年6月号より
◇この頃ずっと心に響いている言葉があります。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(2コリント5:18)。パウロは、私たちキリスト者は和解の使者だというのです。◇最近特に、「ああ、人間って難しいなあ」と思わされる知らせを聞くことがあります。あそこでもここでも、人と人が衝突しています。そしてまた、思いがけないしかたで、複雑な人間関係に巻き込まれていきます。しかも特にこの10年、その複雑さが増しているかのようです。日本の断面を切り取って見せた小さな文章に心が痛みます。「いつから日本人はこんなに不寛容になったのだろう。……失敗や挫折、過ちを決して許さない。そんな苛烈な社会のパワハラに追い込まれ、自ら命を絶つ犠牲者は毎年3万人を超えている」(東京新聞、6月9日)。◇教会は赦しを語ります。神は私たちを問い詰めることをなさらず、和解してくださるのです。だから私たちは幾度失敗しても、挫折しても、過ちを犯しても、もう一度教会から歩み直すことができるのです。◇私たちは和解の使者。代田教会には子どもから大人まで、毎週250人を超える人たちが集まっています。決して少ない数ではありません。そのすべての人が争いの張本人になるのではなく、和解の使者として生ききることができるなら、わずかでも日本は変わっていくでしょう。私たちは和解の使者。そのことを肝に銘じて、生きていきたいと思います。
○代田教会会報 2010年5月号より
◇今月、絵本『ひとりのみやこ・ふたりのきょうだい』が出版されました。初めての絵本の翻訳。美しい絵に励まされ、楽しい仕事でした。◇舞台はエルサレム。賢者ソロモン王のもとに、相続財産をめぐる権利を主張する兄と弟が訪ねてきます。この2人にソロモン王は、エルサレムに神殿ができる前、その地を包んだ愛の物語を語って聞かせます。かつてエルサレムは、愛の出会いの地であった、と。◇「エルサレム」とは「神の平和」という意味です。しかし悲しいことに、そこは世界中の紛争を象徴する都になっています。この絵本のあとがきは次のように終わります。「この地に、平和が訪れる日がやがてくるのか、だれもわかりません。もしもソロモンがいま生きていたとしたら、平和への道を示すために、この物語を語ってくれるかもしれません」。◇雑誌『ミニストリー』の編集主幹の仕事も1年が経ちました。様々な場所から、しかも異なる立場にある同年代の神学者たちが集まって雑誌をつくっています。教団、カンバーランド、ルター派、聖公会、福音派、さらに信仰の強調もそれぞれです。こんなにバラエティに富んだ人たちが、将来の教会を思いながら集まって来たこと自体が大きなニュースなのです。その仲間たちといつも次のように話し合っています。「善悪の二元論、正義と悪の二元論を超えた地平を一緒に捜そう」。教会が、相手を裁くための砦になってしまうことがあるのです。◇そんな祈りを心にしながら、出版の仕事に関わっています。
○代田教会会報 2010年3月号より
◇「復活節の高笑い」という言葉があるそうです。復活祭には皆が礼拝で声高らかに笑ったのです。◇ルカ福音書が伝える復活は、ユーモアに満ちています。エマオへ急ぐ2人の弟子は、一緒に歩く第3の人に尋ねます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。知るも知らぬもありません。そこにおられるのは当の本人、主イエスなのです。◇さらにこういう記事もあります。復活したキリストを弟子たちが目の当たりにし、これは亡霊だとうろたえていると、主は「亡霊には肉も骨もないが、…わたしにはそれがある」とおっしゃり、手と足をお見せになりました。しかもこともあろうに、「ここに何か食べ物があるか」と言って焼いた魚を食べて見せてくださった、というのです。◇ユーモアは深刻な事柄を相対化してしまう力です。墓は空っぽになり、主は復活された。その時、死こそ人生の終点、すべての終わりだとする常識は、思い込みに過ぎないものとされてしまいました。主イエスが復活して隣におられるのに気づかない、2人の弟子たちの滑稽さ。死と疑いに捕らわれている弟子たちの前で、手と足を見せ、魚まで食べて見せながら御自分を知らせようとなさる、主の真剣で、悲しみに満ちたユーモラスなお姿。◇主イエス・キリストは勝利者です。その勝利を私たちにも与えてくださる方です。だから私たちは自分に起こる病も死も、不幸や忍耐も、ユーモアの種にして笑い飛ばすことさえできるのです。
○代田教会会報 2009年11月号より
大学生時代のわずかな期間、演劇部に所属していたことがあります。出演したのはわずか2本。もちろんどちらも脇役です。1本は追っ手に囲まれて惨殺される落武者。もう1本はガマの油売りの行商人。もう、セリフを思い出すこともありません。けれども、今でも耳の中で鳴り響いているセリフがあります。劇の途中、大道具の転換のために舞台を暗転する間、2人の「女乞食」役が上手と下手に立ち、スポットライトが当たる。そして、悲しみを込めた叫び声でやりとりするのです。「帰ろうよう」。「どこに帰ろうってのさ」。大道具の転換のたび、同じセリフが繰り返されます。故郷喪失者の代弁者のようにして。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。主イエスの伝道第一声です。「悔い改める」とは「立ち帰る」という意味であるということを教えてもらったとき、ほんとうにうれしい思いに満たされました。主イエスは、〈帰って来なさい〉と呼びかけてくださるのです。たとえ「女乞食」のように身を持ち崩していても、迎えていただける場所があるのです。とても虫がいい話です。けれども、虫がよくなければ、私たちが神のもとに帰ることなどできません。クリスマスを待つ季節が始まります。クリスマスは、私たちがもう一度故郷に帰る季節です。立ち帰りましょう。見栄も、言い訳も、すべて傍らに置いて、神のもとに、主イエス・キリストのそばへ、立ち帰りましょう。