教会便り / ジェイ通信

伝道師 「在伊



○代田教会会報 2015年12月号より
◇今年も一番早く窓から窓へとアドベントを伝えている人々がいます。その人々とは、イエス様のお誕生を待ちながら歌っている幼稚園の子どもたちです。その声は、「アドベントクランツにあかりがつくと、かみの子イェスさまのおたんじょうがちかくなる。まことのひかりイェスさまのおたんじょうをみんながまっています。みんながまっています」と大きな声で歌います。それは、代田教会の幼稚園の子どもたちだけではありません。代田教会の皆さんも、いや世界のキリスト者たちも皆、神の独り子イエス・キリストのお誕生を待ち望んでいることでしょう。世界のキリスト者たちが、アドベントクランツにあかりがつくと共に、真の光イエス・キリストのお誕生の喜びを歌いながら待つでしょう。私もまことの光としてこの世に来てくださった御子主イエス・キリストのお誕生を、違う窓から、幼稚園の子どもたちと共に歌いながら待っています。 ◇アドベントに入る第一週には、一本目の蝋燭に火を灯します。私は灯ったその蝋燭の火を見ながら思うことがあります。光を輝かせるためには、蝋燭の芯を燃やして小さくしならなければ、火が消えてしまいます。そのように、光としてこの世に来てくださった主イエスも同じではないか、と。そのアドベントの蝋燭の火を見ることによって、私たちを暗闇から救おうとしてこの世に来てくださった主イエスを見ることが出来ます。私たちがこの世の光の子どもとして生き、周りの人々に光の子どもとして光を届けるために、主イエスは私たちの代わりに十字架に死んでくださり、復活され、今も私たちと共におられます。主イエスは、私たちに「あなたがたは世の光である」と語ってくださっています。主イエスのお誕生を待っている私たちがこの世の光の子として、この世を歩いていきます。真っ暗なところを照らして、輝いていきます。それがどんなに小さな光であっても周りを明るく照らします。なぜなら、私たちを通して主イエスが輝いてくださるからです。   (伝道師 「 在伊

○代田教会会報 2015年11月号より
◇9月20日から23日まで、3泊4日で麦の会のメンバー6人と一緒に東北教区被災者支援センター・エマオに行って参りました。フィールドツアーとエマオでのワークを行いました。 ◇その時、被災地に立っている私に、まるで風のように違う空気が漂って来ました。その風は誰にも言えなくなってしまったかつての幸せの風でした。それは、ある方々が家族と一緒に生活しながら楽しく食事をしていた幸せの風、ある方々がたんぼや畑で、村の人々と一緒にわいわいと感謝の収穫をしていた幸せの風、子どもたちが生き生きして学校に登校していた幸せの声の風でした。 ◇しかし、今私の目の前に見えている風景は違う。今までそばで一緒に生活した家族、友人、全てのものが突然なくなってしまい、激しく泣き悲しむ声が聞こえています。いや今は、あまりの驚きから泣き悲しむ声も出なくなってしまっている。ただ沈黙が被災地に流れ、その中で被災者たちは心の中で泣き、慰めてもらうことすらしなくなっているように思われました。全てが自分のところからなくなってしまい、その悲しみがあまりにも深いために、慰められることを拒否してしまったのかもしれません。被災者たちは「自分の家族が、友人が、もういない」という状況の中で、誰かの慰めはいらなくなってしまったのかもしれません。その方々を慰める、深い悲しみの中にある人々を慰めることは、たとえ似たような経験をしたとしても、それをもって慰めることは到底できません。いや、むしろ人は、どんなに慰めたくても、自分の力では本当の慰めを与えることができない、ただ途方に暮れるばかりです。だからこそ、その現状で私たちはその方々を、どのように慰めることができるだろうかという課題を負いながら、その方々のそばにいるのだと思います。今もその被災地でその方々に慰めを運ぶ者として働いているエマオのスタッフ、ボランティアの方々がいます。その方々は1日を始める前、神様に祈りをもって始めています。(伝道師 「 在伊)

○代田教会会報 2015年10月号より
◇わたしたちの信仰生活の中で、神様に「なぜ」、「どうして」という問いかけの祈りを叫ぶことがあります。そして、神様から遠くへ遠くへと離れて行く、下へ下へと向かって逃げていくことがあります。私たちが何かを任された時に、こんな人間である私がどうして、と言ってその場から逃げようとしてしまうことがあります。神様もっとふさわしい人がいるのになぜ、わたしがしなければならないのでしょうかと祈り続ける時もあるでしょう。あれこれ言い訳しながらその務めから、その場から遠くへ遠くへと離れていく、下へ下へと向かって逃げて行く自分の姿があるでしょう。そこから自分の目からふさわしいと思われる人を探しては、この人が、あの人がいるのにと思うのではないでしょうか。けれども、誰がその務めにふさわしい人を決めるのでしょうか。わたしたちの目ではないのです。私たちの目から見て判断するふさわしさではありません。その場で、その人を選んで遣わされるお方は神様です。人間から見るともっとふさわしい人がいるはずなのにと思うかもしれませんが、神様がご覧になられて、神様が、その時、その場で一番ふさわしい人を選び出し遣わされます。それは神様が一番出来ないと思っている私たちを必要とされているということです。私たちの中にも同じような経験があることでしょう。その時、神様が見て一番ふさわしい人は皆さん一人一人だということです。その時、私たちを選んで遣わそうとする神様がおられます。神様の御前ではわたしたちは何の言い訳もできません。私たちが想像する以上に、私たちが見ている以上に、神様は遥かにすべてのことをご存知のお方です。わたしが神様に教える必要はないのです。その務めに、その任されたことに感謝をもって従うことです。神様が今私たちのところに来られて、「わたしは誰を遣わすべきか」と呼びかけてくださいます。その時に、私たちは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答え、主イエスに従うのです。   (伝道師 「 在伊)

○代田教会会報 2015年9月号より
◇私たちは、自分の言葉が相手にどのように届いたのかと悩む時があります。特に厳しい言葉を、教会の兄弟や姉妹、または家族にぶつけてしまった時、わたしたちはその人々との関係が気になってしょうがなくなります。その人との関係がそこでもう終わりかもしれないと思い、心配になり、不安になります。あるいは反対に、相手からの厳しい言葉によって悲しくなったり、悩んだりする時もあります。そのような時、私たちは静かな心ではいられなくなります。心の中が悪い言葉でいっぱいになるのです。その日に相手から言われた言葉がいつまでも耳の中を、頭の中を駆け巡り、一体、これからどうなるんだろうかという不安が私たちの心の中にいっぱいになり、十分前にしたことを後悔する思いが沸き上がり、あるいは、人に対する憎しみや悔しさが溢れてきたりしてしまいます。 ◇しかし、主イエスは、今を生きている私たちの間にある敵意という隔ての壁を取り除き、和解を実現させてくださるお方です。悲しかったり、悩んたりして、心配と不安の時を過ごしている私たちの心の中に慰めを与えてくださいます。だから、私たちは破壊的な力に同化することなく、和解をつくりだすこの主イエスの力に結ばれていきます。そこから私たちは互いに赦しあう道へと一歩を踏み出すことができます。その一歩を踏み出したそこから、主イエスの赦しの香りは遠くまで広がっていきます。それは、私たちの力ではなく、主イエスの赦しの力です。その神様は「私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださる」(コリントU2・14)お方です。香りは見えません。触ることも出来ません。形もありません。しかし、そのキリストの香りには驚くべき力があります。主イエスを信じている人は驚くべき力のキリストの香りをもっています。私たちの中にあるそのキリストの香りが他の人々にも影響を及ぼし拡がっていきます。その香りは、ここから漂い初め、遠くにまで広がっていくものです。(伝道師 「 在伊)

○代田教会会報 2015年8月号より
◇ 秋の空のように雲ひとつない青空、大きな木、小さな木が互いに緑色で連なっている山々、森で囲まれている「アジア学院」、「トーチベアラーズ」。けれども、どんなに涼しく見えても風は一切吹いてないむしむしと暑い夏。そんな中でジュニア科キャンプと子ども科サマーキャンプを主の恵みの中で行うことが出来ました。 ◇ジュニア科キャンプは2泊3日で那須塩原市にあるアジア学院で行いました。汗を流しながらジュニア科メンバーと一緒に夏のワークキャンプに参加させて頂きました。そのアジア学院はアジア、アフリカ、太平洋諸国の農村地域から、その土地に根を張り、その土地の人々と共に働く「草の根」の農村指導者を学生として招き、栃木県西那須野のキャンパスにて国籍、宗教、民族、習慣、価値観等の違いを認めつつ、公正で平和な社会実現のために、実践的な学びを行っている学校です。その人々と共にワークをしながらコミュニティを形成することの大切さを学ぶ時間でした。そして、平和で共に生きることって何かを考えさせられる時間でした。 ◇子ども科サマーキャンプは「イエスさまは命のパン」というテーマでトーチベアラーズ山中湖で行いました。主イエスは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と語られました。その命のパンである主イエスを信じることで、永遠の命をいただくこととは何か、主イエスを信じて生きることとはどういうことなのかを、子ども科リーダー一人一人と子ども一人一人が共に御言葉から学び、また、味わうキャンプの時間でした。開会礼拝から閉会礼拝まで、子どもと共に行うキャンプ、礼拝の司式や聖書朗読や祈りなどはの役割を子ども達が役割を担ったキャンプ、御言葉に沿ってそれぞれのリーダーがそれにふさわしい教案を準備して子ども達とともに考えながら楽しく分級の時間を過ごすキャンプ、最初から最後まで子ども達とともに行うキャンプでした。(伝道師 「 在伊)

○代田教会会報 2015年6月号より
◇「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。」(申命記3・24)。 ◇「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコによる福音書16・15) ◇5月11日は西南支区准允式が代田教会礼拝堂において行われ、私も補教師として准允を授けられました。引き続き17日は伝道師就任式が代田教会の礼拝において行われました。双方とも主の御恵みと御守りの内に、また、皆さんのご奉仕の内に、行われたこと、心より感謝申し上げます。 ◇私は神様の導きの中、ある先輩を通して2012年1月から代田教会で神学生としてご奉仕をさせていただくようになりました。その経過があって、さらに今日まで代田教会で伝道師としてご奉仕させていただいています。私にとって代田教会は特別な思いがある教会です。なぜなら、日本で初めての日本の教会、初めての神学生としてのご奉仕、そして、今まで聞いたこともない信徒伝道者としてのご奉仕、二度と信徒には戻らない伝道師としての最初の出発も代田教会だからです。これから伝道師として、もっと多くの方々に福音を宣べ伝える道が与えられている今の歩みに心から感謝しています。これからも学びを深めながら全てのことを神様に委ね、神様に祈りつつ、献身への道を一歩一歩前に進みたいと願っております。 ◇私が好きなお花の中でひとつはひまわりです。ひまわりはいつも太陽を探しては、太陽に向かって伸び、大きな花を広げます。私もそんなひまわりのように、ただ神様を探し、神様に向かって伸び、豊かな花を咲かせられればと願っています。 ◇ひ、必要は備えられる。ま、まっすぐに歩みなさい。わ、私が必ず共にいるから、り、凛々しく、大きな花を咲かせよう。 ◇今後も更に主の前にへりくだりキリストの体なる教会を通して主の御栄えのため、主にお仕えしていきたいと願っております。

○代田教会会報 2015年5月号より
◇「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(Uコリント1・4)。 ◇4月から聖餐訪問を行っています。そこで小さな礼拝を行い、聖餐をいただくことによって、訪問した者もされた者も共に慰められます。神様に共に祈り、共に讃美を捧げる時、そこに満ちあふれている主の慰めを感じることができます。  ◇それぞれ違う苦しみの中にあるとしても、揺るぎない希望をいただいている者たちが共に神様に感謝する喜びがあります。そして、その揺るぎない希望の慰めをいただいた者としてそこから新しい歩みを始めていくことができます。主イエスからいただいた慰めはわたしで止まることはありません。わたしからあなたへと、わたしたちからあなたたちへと満ちあふれていきます。今日だけではなく、明日もこれからもずっとその慰めは満ちあふれ続いていくのです。 ◇その慰めは、わたしたちを通して、あらゆる苦しみの中にある人々、悲しみの中にいる人々に満ちあふれていきます。 ◇代田教会の皆さんはその慰めを運ぶ者として、4月には22名が千葉にある愛の友協会に出かけました。代田教会では年2回、愛の友協会を訪問し、車椅子での散歩のお手伝いなどをしています。代田教会としては年2回ですが、愛の友協会の方々は1年間ずっと待っておられるかもしれません。なぜなら、愛の友協会の方々は、代田教会の方々が訪問して車椅子を押しませんと、外に出かけることができない方々が多いのです。 ◇一緒に散歩しながら慰められます。豊かな自然の中できれいに咲いているお花を見ながら、畑に植えられている色々の野菜を見ながら、会話をしながら、交わりの時を持ちます。優しい風が吹いている中で、電車が走っている音、鳥が鳴いている声を聞きながら、畑でお仕事をしている人々に、歩いている人々に挨拶をしながら、私たちも愛の友協会の方々も共に慰められます。 ( 伝道師 「 在伊)

○代田教会会報 2015年4月号より
◇「キリストの光が私たちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように」と願っている中高生達がそれぞれの教会からひとつの場所に集まりました。その集まりは、福音主義教会連合関西部会が主催している第37回中高生修養会でした。今回の中高生修養会のテーマは「イエスさまは良い羊飼い〜神様の声を聞き分ける者となるために〜]でした。私はその中高生修養会に参加するため大阪に向かいました。初めての関西、出会い、どんな中高生達が集まるのだろうかなどの思いで少し緊張していました。心がドキドキしました。 しかし、中高生修養会が始まった瞬間、自分の緊張はなくなり、ドキドキしていた自分の心がワクワクしてきました。中高生とスタッフを合わせて85名くらいが集まりました。そのくらいの人数だと逆に緊張してドキドキするはずの自分の心がわくわくする心に変わったのです。それには理由がありました。そこに集まったスッタフと中高生は初めて会ったばかりなのにすぐに仲良くなったからです。互いに挨拶し、声をかけ合い、一人ぼっちにならないかという不安や心配をしなくても良い環境を作ってくれました。互いに主イエスのことを語り、真剣に受けとめました。また、「良い羊飼いである主イエスについて行こう」と互いに信仰の励ましをしていました。 ◇私は中高生一人ひとりの中で輝いている主イエスの光の希望を見ることが出来ました。「光の子になるため、従(つ)いて行きます。この世を照らすため、来られた主イエスに。主のうちに闇はなく、夜も昼も輝く。心の中をわが主よ、照らしてください」と賛美の声を聞くことができました。信仰の迷いがあるかもしれません。様々な問題があり、心の傷があるかも知れません。病があり、疲れがあって少し主イエスのところから離れるかも知れません。しかし、どんな時でも私たちと共にいてくださる主イエスに従おうとしている、最後まで「良い羊飼い」として私たちを導いてくださる主イエスに従おうとしている者たちでした。( 伝道師 「 在伊)

○代田教会会報 2015年3月号より
◇代田教会の麦の会の声を書いたものがあります。それは、「麦とhope」というものであり、麦の会メンバーが教会員や代田教会と関係がある方々や他教会の青年たちなどに麦の会の活動を紹介するものです。わたしはこの代田教会で青年たちがそのようなものを発行したのは麦の会が初めてではないかと思いました。しかし、1970年度にも代田教会青年会で発行されたものがありました。それは、「複眼」、「ともしゆ」というものです。わたしは最近それを読むことにはまっています。その中で自分の頭から離れない文章がいくつかありましたが、その中でわたし自身にも問いかけ、考えさせられる文章がありました。北島敏之先生が書いた文章です。それは、ある少年が犯罪をおかして、鹿児島の少年鑑別所に送られてきた時の会話の一部分です。「『君は今までに、ほんとうに何でも話のできる友人、先生、あるいは親があったか』と聞いてみたところ、その答えは『そんな人はいない』という言葉であった」ということです。すなわち、その少年には自分の大事な問題や悩みをほんとうに心から相談が出来る人がいなかったということでした。 ◇このような問いは、この少年だけではないと思います。わたしたちにも、いやわたし自身にも問われることではないかと思います。その時、わたし自身に違う形で問いかけてみました。「わたしは、人がほんとうに何でも話の出来る相手であるのか。人が大事な問題や悩みなどでわたしのところに来て話せるような存在であるのか」と。つまり、わたしは悩みや苦しみを持っている人の友達になっているのか、という問いです。 ◇正直その答えは厳しいものと言わざるを得ません。わたしに助け求めている人がいるのに、その人がほんとうにわたしを何でも話の出来る人だと思っているのに、わたしの方が忙しいことや、悩みや問題を抱えているために、自分のことだけに夢中になってしまい、その人の悩みや苦しみの声が聞こえていなかったのではないだろうかと。(信徒伝道者 「在伊)

○代田教会会報 2015年2月号より
◇神様は私たちを毎日祝福の旅へと誘ってくださいます。私たちの日常生活は、良いことより悪いことばかりを考えながら生きていることが多いのではないかと思います。そのために時々眠れないような夜を過ごす方や、ほとんど夜眠れなくなってしまう方がおられるかもしれません。そのような時私たちは静かな心でいられなくなってしまいます。心の中が悪い言葉でいっぱいになるからです。その日に友達から言われた言葉がいつまでも耳の中や心の中を駆け巡ったり、さらにいったい、明日はどうなるのだろうかという不安でいっぱいになったり、少し前にしたことを後悔する思いでいっぱいになったり、あるいは、人に対する憎しみや悔しさの言葉でいっぱいなったりしてしまいます。私たちの毎日は人にいろんなことを言われて過ごす毎日だからです。 ◇それに比べて人からいい言葉や祝福の言葉を聞くことはあまりないかもしれません。けれども、神様は違います。神様はいつも良い言葉を語ってくださいます。祝福して下さいます。 ◇「あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記12・2)。 ◇そして、神様はそこで私たちが祝福の源となることを願ってくださいます。私たちが特に夢を見ることを忘れてしまっている時にも神様は私たちに対して夢を見させて下さいます。あなたが祝福の源となって、祝福があなたから生まれて出て行く。あなたが良い言葉を語ることによって、その周りもまた良い言葉が、祝福が満ち溢れて行くのだと語られます。神様が小さな私たちの人生にじっと目を留めていて下さるのです。そして、小さな場所に閉じ込もってしまっている私たちを、「ちょっと窓を開けてご覧、扉を開いてご覧」と繰り返し旅に誘って下さいます。神様の誘いに従ったその時に私たちは聞くことができることでしょう。祝福の言葉を聞くことができることでしょう。「あなたは良く私に従った。あなたはその地で祝福の源となる。」(信徒伝道者 「 在伊)

○代田教会会報 2015年1月号より
◇12月から平野先生と共にクリスマスの訪問聖餐に回りました。今回のクリスマスの訪問聖餐は喜びと涙が溢れている訪問でした。 教会に来られない方々の中には様々な理由があり、それぞれの事情があります。けれども、今回のクリスマスの訪問聖餐は特に年を重ね、体が弱ってきて教会に来られなくなった方々を中心に回りました。今まで、なかなか訪問できなかった久しぶりの方々をも訪問することができました。◇しかし、初めて会ったとしても、久しぶりに会ったとしても、小さなクリスマスの礼拝の中に、確かな救い主イエス・キリストの喜びがありました。その出会いとお交わりの中には主が共にいてくださったことに感謝の涙がありました。その喜びと涙はただの喜びと悲しくて、苦しくて流す涙ではありませんでした。確かに、それぞれの歩みの中には大変さがあり、悲しい苦しいこともありました。どんどん年を重ね、体が弱っていく一方であり、様々な問題や課題があって教会に来られなくなってしまう方もいます。自分でも思いがけず心の病や体の病を持って一日を過ごす方もいます。なかなか自分の思い通りに体が動かなくなってゆっくりと体を動かしながら過ごす方もいますしベッドで体を横にして、ただ「主よ」とお祈りしながら一日を過ごす方もいます。その生活の中で教会の方々とのお交わりのことを思い起こしながら、涙を流している方もいます。◇しかし、その一人ひとりの喜びと涙はただそれだけの喜びと涙ではありませんでした。それらはすべての悲しみや苦しみを超えた救い主への喜びと感謝の涙でした。救い主イエス・キリストが今ここに来てくださっていることの喜びと涙です。年を重ね、体はどんどん弱っていく一方である自分のところにも来てくださって「恐れるな」と言ってくださる救い主に感謝し、ほめたたえる喜びでした。救い主イエス・キリストがそれぞれの場所で、それぞれの方々と共にいてくださっていることへの感謝の喜びでした。(信徒伝道者 「 在伊)

○代田教会会報 2014年12月号より
◇「アドベントクランツにあかりがつくと、かみの子イェスさまのおたんじょうがちかくなる。まことのひかりイェスさまのおたんじょうをみんながまっています。みんながまっています」と歌いながらイエス様のお誕生日を待っている人々がいます。代田教会の幼稚園の子どもたちです。子どもたち一人一人が心を込めて、声を合わせて歌いながらイエス様のお誕生日を皆で待っています。 ◇それは、代田教会の幼稚園の子どもたちだけではありません。代田教会の皆さんも、いや、世界のキリスト者たちも皆、神の独り子イエス・キリストのお誕生日を待ち望んでいます。 ◇11月30日(日)からみ子主イエスの降誕を待ち望むアドベントが始まりました。 アドベントとは、イエス・キリストの降誕を待ち望む時期のことです。アドベントクランツに4本の蝋燭を立てて、11月30日(日)に第一主日として1本目の蝋燭に火をともし、真の光イエス・キリストのお誕生日を教会の皆さんが喜びを持って待っています。 ◇主イエス・キリストは神の独り子であり、神と等しい方であります。その神と等しい方として来られた主イエスは、私たちを愛しておられ、私たちを暗闇から救おうとしておられました。その神の独り子である主イエスは、暗闇である世を照らす光として来られました。主イエスは、命であり、光であるということです。主イエスは光としてこの世の暗闇の中で輝いています。そして、真の光を理解できなかった私たちが、その光に照らされて変えられます。主イエスは私たちに「あなたがたは世の光である」と言われました。私たちは主イエスを信じて、光となったのです。だから、私たち一人ひとりは、光の子です。これから私たちは、光の子として、この世を歩いていきます。真っ暗なところを照らして、輝いていきます。それがどんなに小さな光であっても周りを明るく照らします。なぜなら、私たちを通して主イエスが輝いてくださるからです。(信徒伝道者 「 在伊)

○代田教会会報 2014年11月号より
◇小さな部屋で涙と一緒に喜びの声が聞こえました。「アーメン」、「先生、奇跡ですよね」との涙の声、感謝の声、喜びの声でした。確かに奇跡と思えることが起こったのです。それは、9月17日松永和郎さんが病床洗礼を行う時のことです。平野牧師が病院に訪問するたび、松永和郎さんに洗礼を受けることを勧められました。けれども、なかなか「はい」とは言われませんでした。 ◇しかしその日、平野牧師は、様々なお話をなさいました。その後、洗礼を受けましょうと言った時、奇跡が起こったのです。松永和郎さんが「はい、受けます」とはっきりと言われました。「主イエス・キリストによってお祈りいたします」と祈ると、「アーメン」と言われました。和郎さんの中で奇跡が起こったのです。その方の中を主の光が照らしていたのです。確かな救いの喜びが溢れていました。 ◇それまでは和郎さん自身の知識で主イエス・キリストのことを理解しようとし、目に見える確かなこと求めたかったのだと思います。自分の中で納得出来ない、何か自分の心にピンと来ないものがあってなかなか洗礼を受けようとしなかったと思われます。しかし、和郎さん自身の知識では理解が出来ない、納得が出来ないけれども、それ以上のお方が存在し、そのお方は主イエス・キリストであることがわかったのです。目には見えないけれども、自分の知識では理解出来ないけれども、主イエス・キリストの愛があることを感じたのです。病床洗礼を受け、一回の訪問聖餐式を行い、救いである主イエス・キリストを信じ、「アーメン」と言えるようになった松永和郎さんは11月一日に天に召されました。今この地上にはおられないけれども、確かな永遠の命を頂き、何より主の御許で喜んでおられることでしょう。 ◇私はその過程を見ながら感じさせられることがありました。主イエスを信じ、告白することによって、主イエスが私たちを変えて行かれ、「アーメン」と言う者になっていくということです。(信徒伝道者 「 在伊)

○代田教会会報 2014年10月号より
◇「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」(イザヤ書50・10) ◇9月14日の主日礼拝は、敬老の祝福の時間を持ちました。代田教会は80歳以上の方々が60名おられます。60名が皆教会に来て礼拝を捧げることはできませんでしたが、60名一人ひとりはこの代田教会を支えて来た方々です。その一人ひとりがいたからこそ今の代田教会があると言えるでしょう。その一人ひとりは共に福音に仕えて来られた方々です。ここに集められて共に礼拝し、共に賛美し、共に励ましあいながら共に福音に仕えて来られました。 ◇ 敬老の祝福の時は、毎週教会の門をくぐって礼拝をしたくても、それが中々出来なかった方々が教会に来られました。それぞれの場所から、教会の門に入るまでには、どんなに体が疲れたことでしょう。けれども、教会に入り礼拝堂に座って共に礼拝を捧げる喜びはどれほど大きなことでしょう。その心の喜びの希望をもって一歩一歩歩いて教会へと向かって来られました。その方一人ひとりは私たちと共に福音に仕えた方々です。 ◇60名だけではなく、また私たち一人ひとりがその80歳以上の方々と共に福音に仕えています。代田教会に通っている年数はそれぞれ違うかもしれませんが、その方々の信仰の励ましを戴きながら共に福音に仕えています。私も年を取って行けば行くほど、あのように素敵な信仰者になりたいと思いました。その一人ひとりが何の問題もなく、教会生活したとか、沢山奉仕をしたからではありません。様々な課題や問題があり、パウロが言っている不平や理屈を言いながら傷つけたり、喧嘩したりしたかも知れない。その一つ一つを信仰の中で互いに乗り越え、互いに信頼が出来る福音の同労者になっているからです。それは、闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼して歩んで来たということでしょう。 (信徒伝道者 「 在伊)

○代田教会会報 2014年9月号より
◇この夏、代田教会のキャンプ以外に、日本基督教団「教会中高生・青年大会2014」のキャンプに代田教会の青年3人と共に参加させて頂きました。教団では、いわゆる教団紛争以来ずっと青年大会を行って来ておらず、約50年ぶりの呼びかけとなりました。 ◇日本基督教団「教会中高生・青年大会2014」の目的は、「(1)日本伝道の幻に仕えるために、次代の教会を担う若き器が育てられる。(2)日本伝道の幻に仕える伝道者が起こされる」ことです。 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3・6)。 ◇「イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」という主題をもって2泊3日のキャンプが始められました。この御言葉通りに「イエス・キリストの名によって立ち上がり歩こう」としている若者たちが希望をもって「教会中高生・青年大会」のために日本各地から、海の彼方から東山荘に集められました。その数は北海道から沖縄までにある153教会の若者たち、アメリカ、ドイツ、台湾、韓国の教会の若者たちも含めて371名の参加者でした。この若者たちは、ここでしか体験出来ない出会いを通して「イエス・キリストの名によって立ち上がり歩こう」としている者たちでした。その一人ひとりはそれぞれ違う形でイエス様と出会い、御言葉によって心燃やされ、求道者に洗礼の決意が与えられ、キリスト者の中から伝道者として献身する心が与えられて行きました。日常の生活から離れて恵まれた環境で寝食を共にしながら信仰の友達と出会い、新しい自分と出会う三日間になって行くのを経験しました。 ◇私はこのキャンプを通して日本の若い信仰者たちの希望をみました。それぞれ金や銀はないが「イエス・キリトの名によって立ち上がり歩く」ようになっている若者たちの信仰と希望をみました。(信徒伝道者 「 在伊)

○代田教会会報 2014年8月号より
この夏、ジュニア科キャンプと子ども科サマーキャンプに行って参りました。ジュニア科キャンプは2泊3日で那須塩原市にあるアジア学院で行いました。私は、ジュニア科メンバーと一緒に夏のワークキャンプに参加させて頂いたのは去年からです。去年と今年、それぞれ違う楽しさがあり、また学びがありました。特に去年は神学生として参加させて頂いたので、プログラムを全体的に見ることより自分に任されたことだけやれば良かったのです。今年は立場が変わって、責任者としてプログラムを全体的に見ることになりました。そうすると、去年は見えなかった部分が見えて来ました。それは、ジュニア科メンバー一人一人が成長していることでした。見た目だけではなく、考えや意識が成長してが見えて来ました。去年より今年、キャンプが始まった日より今日、今日より明日と少しずつ変わって行く姿が見えました。それは、「共に生きる」、すなわち「互いに生活する」中での成長です。自分だけではなく、相手の気持ちを考える、「共に生きるために」私たち一人一人がどうすれば良いのかを考えていく力が出来たと思います。  子ども科サマーキャンプは、「あなたがたは世の光である」というテーマを持って「トーチベアラーズ山中湖」で行いました。私は子ども科キャンプに行くのは今年がはじめてでした。わくわくしながらどのようなキャンプになるだろうかと期待と希望を持って行きました。子ども科キャンプは開会礼拝から閉会礼拝までリーダーと子ども達一人ひとりがひとつになって「あなたがたは世の光である」というテーマに一貫して取り組み、全てのプログラムを行いました。そして、2泊3日という短いプログラムの中で子ども達一人ひとりは、神様の子どもとして輝いていきました。どんなに小さな子どもであってもどんなに小さな光であっても、まわりを明るく照らす光の子どもとしてこの世界を歩いていく子どもになっていました。  (信徒伝道者 「 在伊)

○代田教会会報 2014年6月号より
毎日、窓から窓へと聞こえる声があります。その声は代田教会の幼稚園の子ども達の声です。神様に感謝するお祈りと喜びの讃美の歌声です。その中で歌っている子ども達は主イエスの喜びの福音をお互いに歌いながら聞いていることでしょう。食事の感謝の祈りも子ども達は声を合わせて「めぐみの神さま、今いただくたべものを、主イエスの名によって感謝します」と祈りの歌を、感謝を持って喜びの声で大きく歌うのです。その場で、祈りと賛美を歌っている子ども達はお互いに福音の種を蒔いていることでしょう。  5月はイスーターの訪問聖餐を行いました。それぞれ違う場所にいるけれども、一年に一回かあるいは二回訪問聖餐に来る代田教会の牧師と教会員を待っている方々がいました。目はよく見えない、耳は聞こえない、記憶は薄くなっている、けれども、忘れていないことがありました。「代田教会」という名前です。「何々さん、代田教会から来ました」と言うと、ニコニコしながら笑顔で迎えて下さるのです。「私の教会、代田教会」と喜びながら言うのです。また、愛唱讃美歌と主の祈りを忘れていませんでした。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。代田教会の仲間たちと共に祈り、共に讃美歌を歌い、共に聖餐にあずかる日を待っている方々です。そこに主の喜びがあることを、福音の喜びがあることを感じました。その祈りと喜びの讃美歌を歌うことだけで終わるのではなく、その祈りと喜びの歌で、そこで共に生活している方々に響くのです。伝えていくのです。今は何も出来ないと思っているかもしれませんが、違います。そこで共に祈り、賛美の歌声を聞いている方々がいます。(信徒伝道者 「在伊)

○代田教会会報 2014年5月号より
◇カール・バルトは、「神の言葉は聖書の中での神自身である。なぜならば神は、主として昔モーセ及び預言者たちに、福音記者および使徒たちに語られた後、神がそれらのものによって書かれた言葉を通して、同じひとりの主としてその教会に語りかけてい給うからである。聖書は、それが教会に対して聖霊を通し、神の啓示についての証言となったし、神の啓示についての証言となることによって、同時に、聖であり、神の言葉である」と述べています。すなわち、神の言葉は、モーセに対して「主である」として現れた神ご自身であり、預言者たちに対して、また福音書記者や使徒たちに神が語られた言葉であるだけでなく、場所も時代も隔たった今も、その同じ主が教会に対して語りかけられている言葉なのであります。聖書に記された言葉は、教会において、神の証言となることによって、神の言葉となるのであります。 ◇神の言葉とは何であろうか。いかにして人は神の言葉を聞き、神の言葉として受け入れ得るのだろうか。テサロニケの信徒への手紙T2章13節は、このように語っている。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。これは、テサロニケの人々が自分が語った言葉を神の言葉として受け入れたという事実に対するパウロの感謝の言葉です。人々は、パウロの語った言葉を、ただ語られて過ぎ去ってゆく人間の言葉として聞いたのではなく、まさに永遠の命を約束する神の言葉として理解しました。人間の言葉を全くそのまま同時に、神の言葉として受け入れたのです。我々は、そのように、礼拝の中で語られている説教を、説教者は本当に神の言葉として語り、会衆者は本当に神の言葉として受け止めているでしょうか。(信徒伝道者 「在伊)

○代田教会会報 2014年4月号より
◇私は、3月7日東京神学大学大学院を卒業し、4月から代田教会に遣わされ、代田教会で信徒伝道者として新しい歩みを始めました。神学生生活の中で、私の記憶に残っている出来事は、4年間という神学生生活そのものであったと思っています。なぜなら、何ひとつ欠けても今の私はいないからです。そのすべての出来事の中で神様が私を導いて下さって、歩ませて下さったからです。これからの代田教会での歩みも主イエス・キリストのお導きを信頼して歩もうと願っています。 ◇「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4・13)。 私は、私が伝道者として何かが出来るからここにいるのではなく、私を強めてくださる方がおられるからこそ、ここにいることが出来、私は出来なくてもその方の力ですべてが可能であることを覚え信じて、歩んで行きたいと思います。 ◇今日より明日が来ること、明日より明後日がくることの希望を見て進んで行きたいと思っています。しかしまた、今日という時間をも、与えられた時として大切に使いたいと願っています。言葉は十分ではないところがあるとは思いますが、精一杯心を尽くして代田教会の皆さんと共に歩んで行きたいと思っています。 ◇世田谷区には代田教会があること、代田教会には幼稚園の子どもたちがいるだけではなく、御年配の方々がいること、共に喜ぶ人の隣には共に悲しむ人もいること、語るものがいれば暑くても寒くても見えないところで奉仕している方々がいること、それらのさまざまな方々のことを覚えながら歩もうと思います。さらにまた、代田教会だけではなく、代田教会の外にも人々がいること、木ばかり見るのではなく、木の周りには森があることも覚えて生きて行きたいと思います。 ◇これらのすべては、決して私一人では出来ないことであります。皆様の祈りと支えをいただき、共に歩ませていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。  (信徒伝道者 「在伊)