教会便り / ジェイ通信

牧師 裵在伊



○代田教会会報 2022年8月号より
まさか、これが新型コロナウイルス感染症陽性の症状なのか。7月19日(火)朝6時頃、鼻づまり、喉の痛みからくる違和感がありました。新型コロナウイルス感染症という疑いがなければ、普通の風邪の症状と変わりはありませんでした。すぐ、塩水でうがいをしてから教会に行って抗原検査キットで検査をしてみると陽性。いろいろ関わっている方々にご迷惑をかけてはいけないので、すぐに近所にある病院に行ってPCR検査を受けようとしました。ところが、予約がいっぱいで受けられず。そこでネットで受けられるところを探し、7箇所にも電話をしましたが、どこも予約がいっぱいで、受けられず。それでも病院を探し続け、やっと今すぐ受けられる、というところに繋がり、駆けつけました。しかし、私の体力はもう既に限界で、病院に着いた時は立っていることも難しく、看護士に「座ってもいいですか」と言うなり倒れこんでしまいました。しばらく休んでからPCR検査をし、結果は24時以内にメールで連絡するとのこと。検査が終わって家に帰ると、その夜からまた喉の痛みが始まり、熱が出始めました。喉の痛みはさすがに普通の風邪の喉の痛みと違い、唾さえ飲み込むのが難しいほどでした。 7月20日(水)12時頃、病院からPCR検査結果(陽性)が届きました。熱は二日間で下がりましたが、今度は熱が下がり過ぎて自分の体が氷のように冷たくなり、こんなに暑い夏なのに冬の布団をかぶって寝ました。喉の痛みはなかなか治らず、五日間も水を飲むことさえ困難でした。一週間を過ぎたらやっと元気になりました。皆さんのご心配とお祈りに心から感謝いたします。 (牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2022年6月号より
6月5日(日)主日礼拝(聖霊降臨祭)の時のことです。不思議な風が吹いて来ました。それは、不思議な風ですが、確かな聖霊の風として私たち一人一人の上に吹き注がれていました。それは、五旬祭(ペンテコステ)の日、弟子たちが一つになって集まっているところに、主イエスの約束されていた聖霊が降ってきたような出来事です。 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2・2‐4)。 そして、その場に集まってきた人々は、弟子たちが外国の言葉で神さまのことを話しているのを聞いてびっくりした。そこにはいろいろな国や地域からやってきた人がいたのに、その人々も自分が住んでいる国や地域(故郷)の言葉で弟子たちが「神の偉大な業を語っている」のを聞いたというのです。  聖霊降臨祭の礼拝を捧げるために礼拝堂に集まっている私たち一人ひとりの上にも聖霊の風が吹き込んでいました。その礼拝の中で北島先生を通して語られた力強い御言葉。そして、午後はクリス・ライスさんの平和講演会を通して語られた平和の言葉。その日、お二人を通して私たち自身のうちに、聖霊が働いていることに気づかされました。たとえ、なお恐れや不安を抱えている現実があったとしても、あらゆる障害を乗り越え、壁を越えていくことのできる聖霊が今私たちをしっかりと捉えてくださっている。神さまの力強い聖霊が、私たち一人ひとりと共にいてくださっています。 主の和解の言葉を信じて。(牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2022年5月号より
忘れられない人でもなく、 忘れられない思い出でもなく、忘れられない祈りがある。 私たちは、いくら年をとっても忘れられない祈りがあります。それは、自分の祈りではなく、主イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」です。 私たちは年をとっていくほど物忘れが多くなっていきます。記憶も次第に薄れていきます。中には家族の顔さえも分からなくなってしまう方もおられます。様々な出来事も、思い出も、人の顔も忘れていく。しかし不思議なことにそのようにすべてのことを忘れていくけれども、忘れられない「主の祈り」があるのです。 四月イースター日から五月第二週までイースター訪問に出かけました。私は、訪問する度に感じていることがあります。いや、不思議に思っていることがあります。このイースター訪問の時も再びその不思議さを感じることができました。訪問先の方々の中には様々なことが分からなくなっている方々がおられます。その中には、コロナ禍の中で、家族の面会も制限されている期間が長かったため、家族の顔さえも忘れてしまっている方もおられます。しかし、そこで小さな礼拝を始めると教会のことを少しずつ思い出します。何より「主の祈り」は皆がはっきりと思い出して祈ります。本当に認知症なのか、と疑うほど大きな声で「天にまします我らの父よ、…」と。それは、驚きであり、喜びであり、不思議でもあるのです。そこで思うのです。「主の祈り」は私たちの記憶だけではなく、私たちの存在そのものが覚えている祈りではないかと思います。それは「自分の命は、生きるのも死ぬのも、神の御手の中にあるのだ」という告白でもある祈りです。 (牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2022年4月号より
受難節から受難週へ、 受難週から復活へ。 神の愛はここにあります。 主イエス・キリストのご降誕から十字架へ、十字架から復活へ、復活から永遠の命へと繋がっていく愛がここにあります。 神は私たちに主イエス・キリストの全生涯を通して愛を示してくださいました。主イエスは私たち人間を愛するゆえに、自ら人となり十字架で見代わりの死を遂げ、私たちの罪を赦してくださいました。その愛は、今もなおこの世界の中に、この私たちの中に注がれています。 その愛に生かされて今日を歩む群れがここにあります。たとえ何が起きようとも主イエスを信じて、主イエスに従う群れがここにあります。主イエス・キリストの十字架への歩みを思い起こしながら歩んでいる。最後の晩餐から十字架の死に至るまでの主イエスの道行を辿る群れがここにあります。その群れはそこで留まらず、主イエスの復活と再臨の希望を持ちながら歩んでいます。その群れは、代田教会という群れです。 私たちは、確かな主イエスの約束を信じながら、主イエスの愛を感じながら、繰り返し罪を赦されながら生きています。神の言葉に生かされ、主に従って生きます。天を仰ぎながら「み国を来たらせたえ」と祈っています。今もなお戦争の中で苦しみ傷ついている人々のために、この世界の平和のために、隣人のために「主よ、憐れんでください」と祈っています。互いに励まし合い、助け合いながら生きています。ここに確かな神の愛があります。その愛は私たちから隣人へ、私たちから世界の人々へ広がっていきます。 (牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2022年3月号より
「キリストの平和が私たちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように」と願いながら祈っています。その祈りは私たちの心だけにとどまらないでしょう。私たちの心から心へとゆきわたり、ウクライナで起こっている恐怖と破壊に悲しむ人々の心にまで、苦しみ傷ついている犠牲者の心にまで、戦場に立つ兵士たちの心にまでゆきわたっていくことでしょう。 「キリストの光が私たちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように」と願いながら祈っています。その祈りは私たちの心だけにとどまらないでしょう。私たちの心から心へとゆきわたり、暗闇の道を歩んでいる人々の心にまで、あらゆる苦難の中で苦しんでいる人々の心にまでゆきわたっていくことでしょう。  「キリストの力が私たちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように」と願いながら祈っています。その祈りは私たちの心だけにとどまらないでしょう。私たちの心から心へとゆきわたり、心の病とからだの病と闘っている人々の心にまでゆきわたっていくことでしょう。  「キリストの命が私たちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように」と願いながら祈っています。その祈りは私たちの心だけにとどまらないでしょう。私たちの心から心へとゆきわたり、この世の生涯を終って、死を超えた永遠の命を生きる人々の心にまでゆきわたっていくことでしょう。 「キリストの赦しが私たちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように」と願いながら祈っています。その祈りは私たちの心だけにとどまらないでしょう。私たちの心から心へとゆきわたり、悔い改めている人々の心にまでゆきわたっていくことでしょう。 (牧師 裵 在伊)

---> ○代田教会会報 2022年2月号より
私の執務室の一角を植物園にしています。「緑」、「お花」が室内にあるだけで、心安らぎ、爽やかな気分になり、見ているだけで心が落ち着きます。そして、様々な学びもあります。 私はいろんなお花を育てるのが好きです。その中でもサボテンを育てるのが大好きです。私の執務室の窓際には様々なお花の植木鉢が飾ってあり、その中に何種類かのサボテンも飾ってあります。そのサボテンは、冬の陽光を浴びながらどんどん成長し、子株が多くなります。その子株を毎年春か秋に親株から切り取って独立させるのも一つの楽しみです。そのように親株から独立させた子株のサボテンが植木鉢にさらにどんどん増えていきます。そのサボテンを見て、多くの方々が「へえ…、サボテンが好きなんだ?サボテンの何がいいの」と言われます。私は「なんか…、可愛い…ではないですか」と言うと「そうなの。私はあまりサボテンが好きじゃない」と言われ、ほとんどの場合、サボテンの会話は短く終わってしまいます。サボテンの魅力がたくさんあるのに、と私はいつも思います。何より、サボテンといったら刺です。サボテンの種類は数えきれないほどあり刺の種類も様々あります。形も色も様々です。「いろんな刺を楽しむ」というのは、なかなか他の植物にはない特徴で、私を飽きさせません。サボテンには花が咲きます。私が育てているサボテンもお花を咲かせたことがありました。驚くほど綺麗でした。一度見たらもう虜になります。これだけでもサボテンの魅力は十分だと思います。そのサボテンは、私たち人間を表すようにも思います。人は皆、形も色も違う様々な刺を持ちながら、皆それぞれに違う花を咲かせて生きているのではないか、と。 (牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2022年1月号より
十二月はクリスマスの訪問から始まり、ポインセチアを運ぶ訪問で終わりました。何と幸いなことでしょう。 今回は、平野先生と何人かの教会員と共にクリスマスの訪問に各地に伺うことができました。コロナ禍のため、面会がなかなかできないままに施設で過ごしておられる方々のところにも訪問することができました。十二月はコロナの感染者数が少し減っていたため、十五分か、三十分かの面会が許されたからです。その方々の中にはコロナの期間、全く会えなくて、二年ぶりにやっと会えた方々もおられました。その方々と共に、それぞれの場所で小さなクリスマス礼拝を捧げる喜びが与えられましたこと、心より感謝しております。 そして、今回のクリスマスの訪問にはたくさんのプレゼントをお届けすることができました。その中でも、代田教会カレンダー、教会の子ども達が作った羊とオーナメント、礼拝堂に飾っておいたポインセチアなど、皆さま大変喜んでくださいました。教会カレンダーを受け取られた方は「素敵なカレンダーを作られたのですね。写真はどなたが撮られたのですか」と尋ねてくださり、子ども達が作った羊とオーナメントに対しては、「小学生達がよく作ったね。とても可愛いね。」と言いながら、さっそく飾ってくださいました。また、「礼拝堂に飾っておいたポインセチアです」と言いながらお渡しすると、「何と素敵でしょう」、と受け取ってくださいました。 こうして、今回のクリスマスも共に喜ぶ者と共に泣く者とがみんな一緒に慰められた最高のクリスマスを送ることができました。(牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2021年12月号より
クリスマス おめでとうございます?。 礼拝堂から歌声が聞こえてきます。天使に天の大軍が加わって歌っているような歌声が窓から窓へと響きます。 「アドベントクランツにあかりがつくと、かみの子イエスさまのおたんじょうがちかくなる。まことのひかりイエスさまのおたんじょうをみんながまっています。みんながまっています」、と。 代田教会の幼稚園の子どもたち一人一人が心を込めて、声を合わせて歌いながらイエスさまのお誕生を祝う日を皆で待っています。それは、代田教会の幼稚園の園児たちだけではありません。代田教会の皆さんも、いや、世界のキリスト者たちも皆、神の独り子イエス・キリストのお誕生を祝う日を待ち望んでいます。天使に天の大軍が加わり、神を賛美したように、世界のキリスト者たちも皆、天使に加わって「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」、と。 その歌声はこのコロナ禍の中でも教会から町中へ、世界中へ響き渡っています。御子主イエス・キリストは、あなたのために、私たちのために、すべての人のために、救い主としてこの世に来てくださったからです。私たちの希望として、平和として、喜びとして、愛として、この世に来てくださったからです。絶望の中に希望を、戦いの中に平和を、悲しみの中に喜びを、神の独り子イエス・キリストをお与えになったほどの神様の愛を、私たち一人一人に与えてくださったからです。暗闇に打ち勝つ力をもって、光を照らしながら私たちのところに来てくださったからです。(牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2021年11月号より
青空の下、秋風に紅葉がひらひら舞い落ちる色鮮やかな庭。十一月を過ごしている私は今その庭から聞こえてくる声から豊かさと懐かしさを感じている。 その庭から聞こえてくる豊かな声は、生き生きとしている幼児たちの声である。それは、幼児たちが庭で楽しく嬉しそうに走り回っている、遊んでいる豊かな声である。 しかし、コロナ禍のため、その庭で聞こえなくなってしまった懐かしい声がある。それは、毎年恒例となっていた教会・幼稚園バザーが開かれている庭から聞こえてくる声である。大人も子どもも楽しく嬉しそうなの声で生き生きとしていた声。その声は今年も懐かしい声としてとどまっている。 代田教会は例年十一月になると教会・幼稚園のバザーを開催してきた。しかし、この毎年恒例の教会・幼稚園のバザーが、昨年に引き続き今年も、コロナ禍によりやむを得ず中止となった。教会と幼稚園が一つになって心を合わせ、思いを合わせて行なってきたバザー。そのバザーは教会・幼稚園を通して遠くまで広く繋がっていた。様々なところから様々な方々がそのバザーに訪れて、この庭ににぎやかな声を溢れさせた。 私は今この庭で聞こえてくる幼児たちの豊かな声と同時に聞こえなくなっている懐かしい声を感じている。 しかし、そこで留まるのではない。青空の下、秋風に紅葉がひらひら舞い落ちる色鮮やかな庭に新しい風が吹いてきている。それは、懐かしい声を活かしているが、確かに新しい風として吹いてきている。それは、代田教会オンライン文化祭《DOMINE》の風である。 (牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2021年10月号より
こちらにもあちらにもキリスト者が生きておられます。そこに「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」兄弟姉妹が生きておられます。主イエスに結ばれ、主の名によって祈っている兄弟姉妹が主イエスと深く繋がって、教会と深く繋がって生きておられます。どんな暗闇の中でも主イエスの光に照らされ、希望に生きておられます。神さまに生かされ、神さまの言葉と共にいきいきとして生きておられます。その兄弟姉妹がこのコロナ禍の中でもそれぞれの場所で光の子どもとして周りを明るくしながら生きておられます。 御言葉を思い起こしながら天を仰ぎ、「アッパ、父よ」と祈っている。教会に行きたいという思いに乗せて懐かしい思い出を巡らせている。世での苦難につらさを覚えながらも主イエスの言葉「しかし、勇気を出しなさい」という御言葉を思い起こしながら勇気を出している。自分の弱さや罪深さに気づきながら赦しの主イエスに祈っている。教会のため、教会の兄弟姉妹のため、執り成しをしながら、復活の主イエス・キリストが神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださる恵みに感謝しながら生きておられます。 人をおとしめる言葉や自分を嘆く暗い言葉ばかりが口から出てくる中で祈りのともしびの言葉を見出します。私たちの心の奥底にある思いを、嘆きを、罪の赦しを、父なる神さまのもとにまで届くように。絶望が絶望で終わるのではなく、絶望が希望へと開く、外側から訪れる新しい言葉をもって祈っています。 その兄弟姉妹が今日もあちらこちらで主イエスへの希望をもって、喜びをもって生きておられます。 (牧師 裵 在伊)

○代田教会会報 2021年9月号より
四季咲きのバラが代田教会にもあるのを皆さんはご存じでしょうか。今月はそのバラを皆さんにご紹介します。  四季咲きのバラは春夏秋冬にお花を咲かせるというわけではない。バラは冬の低い温度では開花することができない。だから、春、夏、秋の三つのシーズンにお花を咲かせます。しかしなぜ四季咲きという名前なのでしょうか? それは四季咲きのバラはシーズンに影響されず、暖かい温度と適度な日光を当てればお花を咲かせるという性質から「四季咲き」と呼ばれているようです。それでも、四季咲きのバラだからと言って枯れないというわけではありません。 代田教会の四季咲きのバラもそうです。自分の力では四季咲きの力はないかもしれませんが、神さまの大きな愛の温度と主イエスの光を保つことで四季咲きのバラが美しく綺麗に咲く。毎日「恐れるな」と語りかけてくださる聖霊の力で明るく元気を出して咲く。そのバラは、多くの人を魅了します。 それは、代田教会の「笑顔軍団」の方々を現わしています。私は代田教会の「笑顔軍団」の方々が四季咲きのバラだと思っています。神さまの愛の温度と主イエスの光と聖霊の力から四季咲きのバラのように笑顔を咲かせる。その笑顔で私たちを支えて慰めへと導いてくださっています。 その方々一人また一人がこの地上の「笑顔軍団」から天上の「笑顔軍団」へと移っていかれます。代田教会には80歳以上の方々が73名おられます。代田教会に通っている年数はそれぞれ違うかもしれませんが、その「笑顔軍団」の方々の信仰に励ましを戴きながら共に福音に仕えています。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2021年8月号より
この夏の行事もコロナ禍の影響でなかなか思い通りに行うことができない。しかし、そこで諦めるのではなく、皆の知恵を集めて、それぞれの行事を違う形で行うことにした。 「平和の集い」は昨年に引き続き今年も皆さんを礼拝堂に招いて開くことができない。そこで、企画委員会の皆が知恵を絞った結果、教会から皆さんの手元に様々な「平和の祈り」を集めて届けることができた。皆が礼拝堂に集まって平和のために祈ることはできないが、それぞれの場所でその祈りをもって世界の平和のために祈ることができたと思う。何と素晴らしいことだろう。 ジュニアグループのキャンプも昨年から引き続き今年も教会から出かけることができない。そこでリーダーの皆も知恵を出し合ってそれぞれのグループにふさわしい形で行うことにした。  子ども科は二十一日(土)午後四時から午後七時まで子ども達を教会に迎えて「夏のお楽しみプログラム」を行うことにした。リーダーの皆さんはその旨を子どもたちの親に丁寧な文書を書いて送り、様々な事を工夫しながら、コロナ禍で疲れている子どもたちが少しでも癒されて帰るようにしたいという願いを込めて、細かいやり取りを繰り返しながら準備をしている。  ジュニア科は二十二日(日)午後四時から午後五時まで「サマーSPジュニアタイム」をZoomライブ配信で行うことにした。ジュニアメンバー達にお知らせのはがきを送り、その時を楽しみに待っている。 コロナ禍における新しい企画をみんなの知恵と工夫で作り上げる。なんと素晴らしいことだろう。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2021年6月号より
わたしは散歩をするのが大好きです。最近はコロナのこともあり、近くの街の中を散歩しながら楽しんでいます。散歩の魅力はたくさんあると思いますが、街の中を歩くと街に愛着が湧くようになります。街の特徴、変化を楽しむことができます。そして散歩を繰り返すと、自ずと街について詳しくなります。 何よりこの家あの家の庭に咲いている様々なお花を見ながら散歩するのはとても楽しいです。珍しいお花があちらこちらの庭に綺麗に咲いています。その花々を見ながらゆっくりゆっくり街の中を歩くとほっとします。わたしの心まできれいになっている気がします。時々、足を止めじっとお花を眺めながら声をかけることもあります。あなたの名前は?とても綺麗ね」、などというと「喜んでくれてありがとう」と言っているるように感じます。誰にも縛られず、一人で街を散策できる素晴らしい時間です。そして、散歩中、様々な悩みがふと解決する瞬間があったり、考えが色々上手くまとまったりします。  それだけではありません。散歩はわたしにとって三歩の祈りの空間でもあります。 一歩は感謝です。生かされていること、たくさんの恵みをいただいていること、守られ導かれていることなどを神さまに感謝します。 一歩は讃美です。吹いている風に合わせて花や木々が動く。木々の中に動く鳥の声などに感動しながら神さまを讃美します。 一歩は執り成しです。教会の方々、家族、世界の人々などのために執り成しをします。 神さまに三歩の祈りをしながら一歩一歩ゆっくり歩く散歩は最高の時間です。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2021年5月号より
復活された主イエスは、それぞれの弟子たちに現れました。主イエスはご自分が十字架の道を歩んだとき、知らんぷりして、逃げ出してしまった弟子たちのところに訪ねてくださいました。そこには、恐れている弟子たちがいました。主イエスはその弟子たちに向かって「なぜ、わたしから逃げ出したのか」とは言われませんでした。叱る言葉の代わりに「あなたがたに平和があるように」と告げました。その弟子たちのそばに来て共に歩かれたり、食事を準備して待っておられたりしました。それは、今も変わりがありません。主イエスは、神さまに背いて歩いている私たち一人ひとりのところに来てくださいます。そして、思いがけないことでがっかりして歩いている私たちのそばに来て共に歩いてくださいます。さらに「物分かりが悪く、心が鈍い」私たちに忍耐をもって語りかけ、ご自分が主イエスであることが分かるように「パンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡し」になるのです。様々な不安や恐れをもって一日一日を過ごしている私たちの生活の真ん中に来てくださって「あなたがたに平和があるように」と告げてくださいます。さらに、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、教会の礼拝に、聖餐を準備して待っておられます。 私たちはコロナ禍の生活を一年以上続けています。忍耐の連続の日々が続きます。その私たちの只中に主イエスは今も生きておられ、私たちのもとに来てくださり、告げてくださいます。「あなたがたに平和があるように」、と。その主イエスを信じ、勇気を出して、今日も明日も、その次の日も道を進んでいきましょう。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2021年4月号より
主イエス・キリストの復活を記念し、喜び祝うイースターを迎えました。 コロナ禍でのイースター礼拝だったので、皆さんと共に礼拝堂に座って礼拝を捧げることはできませんでした。しかし、多くの方々がZOOMライブ配信に参加して共に礼拝を捧げる喜びが与えられました。 このイースター礼拝で二人の方が洗礼を受け、代田教会の群れに加わることができました。そこには、大きな喜びがありました。礼拝堂で礼拝を捧げている方々もZOOMライブ配信の向こう側の皆さんも共に喜ぶ時となりました。それは、復活の主イエス・キリストに出会った弟子たちが喜びに溢れたようにです。 主イエス・キリストが十字架に架けられ、殺されたことに失望した二人の弟子が、エマオへ帰る途中、復活した主にお目にかかり、その語られる教えに心が燃えました。主が十字架に架けられる時、主を知らない、無関係だと三度も、主イエスを否定したペトロは、復活した主にお目にかかって、三度、主を愛すると答えました。主の復活を信じなかったトマスは、その孤独な心を復活の主の愛に包まれ、暖められて、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白しました。主の十字架刑の際に逃げ出した弟子たちは皆、復活した主にお目にかかり、迫害をも恐れず、主の十字架の恵みと復活の希望を伝える使徒へと変えられました。 恐れや不安、悲しみと挫折のただ中で、復活した主にお目にかかった弟子たちは皆、愛と勇気と希望を与えられ、人生を変えられる「出会い」の出来事を体験しました。そのように、私たちも新しく代田教会の群れに加わった兄弟姉妹も主イエスとの出会いを体験することができる。聖書によって示されている主イエスの御言葉と愛を知り、感動し、人生を変えられることができる。主イエスと出会った喜びが溢れました。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2021年3月号より
「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイ二一・九)。 二千年以上にわたって、主イエスに従った群衆の声が響いてきます。「ホサナ、ホサナ」。 主イエスがろばに乗ってエルサレムに入って来られる時、主イエスの道に自分たちの服や木の枝を切って道に敷き、主イエスの前に行く者も後に従う者も「ホサナ、ホサナ」と叫んだ群衆の歌声です。 私たちはレント(受難節)、主イエスの十字架への道を仰ぐ時を過ごしています。私はこの季節になると、この群衆の声が私の心にもっと深く広く響いてきます。「ホサナ、ホサナ」、と。 それは、ただ主イエスをほめたたえる喜びの声だけが深く広く響いてくるのではありません。私の心を深く広く痛める声でもあります。それは、その群衆の声が変わっていくのを知っているからです。その群衆は、死刑の判決を受ける主イエスの前では、人々の間に紛れ込んでいれば自分の存在はそんなに目立たないと思っていました。だから、もっと大きな声で「十字架につけろ」と叫び続けました。「ホサナ、ホサナ」と、主をほめたたえた歌声が、「十字架につけろ、十字架につけろ」という呪い声に一変したのです。そのような姿は、当時の群衆だけではありません。私たちもしばしば群衆の一人になってしまうことがあるでしょう。当時の群衆と同じ過ちではないかもしれませんが、繰り返し過ちを犯してしまうのです。 しかし、それでも、主イエスは私たちに語りかけてくださいます。主イエスの受けられた苦しみを覚え、復活へと続く道をたどるのだ、と。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2021年2月号より
二月二十日は代田教会の創立記念日でした。代田教会は創立八十三年の歩みを続けてきました。それは、多くの方々の支えと祈りによって、何より神さまの導きによって刻むことが許された八十三年の歴史でした。神さまから与えられた「恵み」を指折り数え、讃美と感謝を胸に八十四年目の歩みを踏み出していきましょう。 今年の創立記念主日礼拝は例年と違い、新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、皆が共に礼拝堂に集い、礼拝をささげることができませんでした。そして、代田教会の歩みを互いに語り合い、記念撮影をすることなどもできませんでした。しかし、多くの方々が「礼拝ライブ配信」に参加し、多くの方々と共に創立八十三年の時を守られ導かれました。きっと十年後、二十年後に、「あぁ、この時はコロナで大変だったね。でも、その分、助け合い、支え合い、祈り合ったね」と神さまの与えてくださった「恵み」に感謝を重ねることができることでしょう。 教会には満ちていく「時」があり、教会の完成した姿が今あるわけではありません。今、代田教会は八十三年の時を経ました。その今は完成形でもなく、昨年の創立記念日の時とは違う「恵みの時」であります。そして来年はまた違う「恵みの時」となるでしょう。そのためには、いつも神さまの問いかけに耳を傾け、私たちの教会は今の時、何をしたらよいのか?どうあるべきか?と答えを考え続けていくことが大切だと思います。そしてそれは、それぞれの信仰においても同じではないかと思います。 心を新たにされ、感謝の気持ちで新しく歩み出していきましょう。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2021年1月号より
十二月はコロナ収束していない中でクリスマス礼拝とクリスマスイブ礼拝を捧げることができました。コロナ禍の中での初めてのそれぞれの礼拝でしたが、多くの方々が「素晴らしい礼拝だ」と言ってくださいました。そこには、多くの方々の工夫がありました。その工夫が困難の中で新しい希望へとつながっていったからでしょう。そして、それと共に二つの大きな喜びがありました。それは、クリスマス訪問聖餐と洗礼式を行ったことです。そこに、共に喜び、共に泣く、共に祈る兄弟姉妹がいました。 そのような恵みの時間を送り、新しい年を迎えました。去年とあまり、いや全く変わらないどころか、さらに深刻な環境、状況が自分の目の前にあり、わたしという自分も何も変わらないまま新しい年を迎えたように思うかもしれません。しかし違います。もしかしたらそれは私たちが思い込んで作ってしまっている環境、状況かもしれません。昨日と同じ時間が今日与えられたのではありません。新しい日、新しい命が今日私たちに与えられたのです。たとえ私たちの環境や状況がそんなに変わらないように見えたとしても、その環境や状況を変えていく新しい日、新しい命を、神様は私たちに今日も与えられたのです。そして、その神様に私たちはお祈りすることができます。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩編五一・一二)、と。今わたしの内にいる主イエス・キリストは、清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてくださるお方です。その主イエスが変えてくださって行くことを信じて、希望をもって新しい年を迎えていきましょう。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年12月号より
「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 (ルカ二・一一)   メリークリスマス?。 「あなたがたのために、今日救い主がお生まれになった」。  救い主の誕生は、この民全体のための、素晴らしい喜びの知らせでした。清く正しく美しい人のためにだけ、立派な人たちのためにだけではなかったのです。誰かのためではなく、「あなたのために」、今日救い主がお生まれになったのです。 世界で最初のクリスマスの夜には、当時の社会において、非常に身分の低い羊飼いのところに、真っ先に素晴らしい知らせが届けられました。そして、ここに神さまの愛があります。神さまからの愛のプレゼントが届けられたのです。それは、後にも先にも、これ以上に素晴らしいプレゼントは決してないと思えるほど、素晴らしいプレゼントでした。最大のプレゼントでした。そのプレゼントは、神様のひとり子なるイエス・キリストご自身だからです。 しかも他の誰でもない「あなたがたのために」と言い切られていて、どれだけ嬉しかったことでしょう。真理の輝きが久しくこの闇の中に差し込み、民全体が大きな喜びに包まれたことでしょう。 私たちもその最大のプレゼントをいただいたのです。救い主なるイエスさまがお生まれになったのは、私たちのためであり、このお方こそ、天の父なる神さまから私たちに対する、最高のクリスマス・プレゼントであったのです。 恐れるな? 今、世界中は、「コロナ禍」という出口の見えないトンネルの中にいます。私たちはまさに出口の見えないトンネルの中を走らなければいけません。感染症の収束は見通しが立ちません。そこで、先の見えない不安や恐れを抱えている人が多くいます。先の見えない経済の先行きに狼狽しています。教会も例外ではありません。教会も様々なことに不安を抱えています。十分に面会することもかなわず、愛する人を天に送る場合もありました。私たちの心と暮らしに鈍痛のような辛さの加わる日々です。私たちも恐れています。それは、クリスマスの夜、野宿をしながら、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちと同じです。暗闇に囲まれているからです。 その私たちに繰り返し響く言葉があります。「恐れるな」。 野宿をしながら、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちを照らした光が、今出口の見えないトンネルの中を走っている私たちをも照らしてくださっています。光としてこの世に来られた救い主は私たちを照らしながら、私たちの傍らで「恐れるな」、と語り続けてくださっています。 私たちも讃美の歌声をあげましょう。初めてのクリスマスの時、主イエスのお誕生を喜ぶ讃美の歌声が高らかに響きわたったように。天使と天の大軍に加わって讃美しましょう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ二・一四節)。私たちに、あなたがたに、すべての人々に例外なく、変わることなく、告げられている大きな喜びです。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年11月号より
代田教会は、コロナ禍の中で工夫しながら、すべての礼拝を再開しています。そこには、それぞれの礼拝のために奉仕をしてくださっている方々の様々な工夫があります。その中でも今回は、特にジュニアグループリーダーの皆さんについて報告させていただきます。 ジュニアグループの礼拝も再開しています。ジュニアグループリーダーの皆さんと幼稚園の先生方は、日曜日の朝早く教会に集い、祈りをもって始めます。そして、子どもたちを迎える準備をします。ワクワク、ドキドキしながら準備をしています。そのリーダーの皆さんのお顔には喜びがあります。礼拝は、お互いに距離をとりながら、感染予防対策にいろいろ工夫を施しての礼拝ですが、礼拝堂で子どもたちと共に座って礼拝を捧げる喜びと感謝があります。礼拝を捧げている子どもたちは光の子どもとして輝いています。対面式の分級やさまざまな行事も少しずつ初めています。  そこには、リーダーの皆さんの工夫があり、大変さがあります。しかし、互いによく話し合いながら、一つ一つ確認をしながら、丁寧に決めて行きます。子どもたちを迎えるために保護者に手紙を書いてご理解をいただきます。子どもたちが安心して礼拝を捧げるため、細かいところまで確認しながらやっています。子どもたちが教会に戻ってくるように、愛を込めて子ども通信「ひかりのこども」とジュニア通信を送ります。 何より、ジュニアグループリーダーの皆さんは互いに信頼し合っていることが魅力的です。その信頼がリーダーから子どもたちへ、さらに保護者へとつながっています。( (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年10月号より
主イエスに従って歩み出している私の人生の中で奇跡の出会いが起こり続けています。私は主イエスとの出会いによって、自分の人生が大きく変わりました。その中で人々との出会いも大きく変えられました。それは主イエスによって与えられた恵み以外の何物でもありません。 私たちは日々、様々な人々と新たに出会いつつ生きています。初めて会う人との出会いは勿論のこと、既に知っている人との間でも、新しい側面を発見することで新しい出会いが起こります。それらの出会いが時には人生を大きく変えることがあります。あの時あの人と出会ったことによって今の自分がいる、あの人と出会わなかったら全く違った人生を歩んでいただろう、ということが、多かれ少なかれ誰にもあるでしょう。 私の人生の中でも自分が大きく変わるような奇跡の出会いが起こり続けています。様々な人々との出会いの中でも不思議な出会いがあります。その出会いを通して神さまは私を不思議に導き、支え続けています。私を深く広い愛の奇跡の場へと、癒しと慰めの奇跡の場へと導いていきます。その愛と癒しと慰めは私だけに留まるのではなく、この私を通してまた次から次へと新しい出会いへと導く中で広がっていくのです。 それらは、私が作り出したものではありません。神さまが不思議な出会いの中で私に与えてくださった奇跡の出会いの恵みです。そして、この恵みは、私に与えられた人々をも奇跡の出会いへと導くようにと呼びかけるのです。愛と癒しと慰めとが広がっていくよう、奇跡の出会いを作り上げていくようにと呼びかけるのです。( (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年9月号より
9月13日の主日礼拝(第1回、第2回)に引き続き、「敬老の祝い」の時間を持ちました。コロナの影響で簡素化した仕方で行いましたが、共に代田教会を支え、共に福音に仕えて来られた方々を覚えて、共に祈る時となりました。代田教会には80歳以上の方々が71名おられます。代田教会に通っている年数はそれぞれ違うかもしれませんが、その方々の信仰に励ましを戴きながら共に福音に仕えています。  ドイツの神学者が自らの老いを見つめて語った言葉の一部分です。「いま、わたしはもう一度若くなりたいとは思わない。わたしは喜んで年をとってきた。そして人生という時の境をこえて、神が共におられたことを心から感謝している。わたしと、人生と、永遠と、その境はわたしにはいよいよなくなってきている。わたしはいま、あの夕日が沈む山の向こうの光のあるところに立とうとしている」。 私たちが年を取っていくことは確かに悲しい、寂しい。確かに見えるものはすべて過ぎ去ります。しかし、決してむなしいことではない。私たちは私と、人生という境をこえて、主イエスに近づいていく。私一人ではなく、この地で共に福音に仕えて来られた兄弟姉妹と共に主イエスの前に集められるという時に向かって進んでいくのです。   私たちの力強さではなく、私たちと共におられる神様に支えられ、導かれ、運ばれていくのです。私たちがどんな時でも、神様は私たちを決して見離すことなく、見捨てることもない。あなたが年をとっても、白髪になっても、ヨボヨボになっても、主はなおも私たちを背負い続けてくださいます。運び続けてくださるのです。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年8月号より
静かな礼拝堂に座って、どこかで悲しみながら泣いている誰かのために祈る。 天の父よ、憐んでください。 突き当たりがない道を歩きながら、コロナの事で苦しんでいる世界中の人々のために祈る。 天の父よ、憐んでください。 雨が上がって、雲がながれている間に光が差し込んでいる虹をみながら、希望を失って絶望している誰かのために祈る。 天の父よ、憐んでください。 窓から見える自然を眺めながら、この時も病と闘いながら外に出かけられない誰かのために祈る。 天の父よ、憐んでください。 カーテンに差し込んでくる光を見ながら、この時も独りぼっちであるかのように悲しみつつ孤立している誰かのために祈る。 天の父よ、憐んでください。 一日中、天を仰ぎながら神様とのお交わりをしている。天の父よ、我らを憐んでください。天の父よ、我らを助けてください。 時には主の御心がどこにあるのか、と叫びながら、時には静かに主の御心がありますように、と。時には苦しんで涙を流しながら、どうして、我らを助けくださらないのですか、と。どうして、苦しんでいる、悲しんでいる、涙を流しながら祈っている我らの祈りを聞いてくださらないのですか、と。 しかし、主なる神様は我らの叫びの祈りを答え続けておられる。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を 見た」(出・3・9)。その主なる神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と、語り続けながら、我らを助け憐れんでくださり、祈りに答えてくださっている。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年6月号より
私たちは新型コロナウイルス感染の脅威を前に、恐れ、戸惑い、不安な日々を過ごしている。そして、このような状況の中で私たちは日々選択を迫られている。代田教会も例外ではない。新型コロナウイルスの集団感染を防ぐために、様々な選択の中で今の礼拝の形を選び取っている。そのため、多くの方々が教会に集まって礼拝を捧げることができず、それぞれの場所でライブ配信の参加で共に祈りを合わせている。それは、自分が感染しないためだけではなく、感染させないためでもある。それは隣人への小さな愛の業でもある。その愛はそれで留まることはない。私たちがそれぞれの場所で自分ができる範囲で小さな愛の業を広げて行くのである。 それは、主イエスが私たちに愛と希望を、平和と慰めを注ぎ続けておられるからである。だから、私たちも隣人にそれらを注ぎ続けていくことができる。その対象ややり方は様々であるが、私たちがいるところで、キリスト者として注ぎ続けている。 ある人は、コロナウイルスのことで恐れや不安の中で過ごしている人々に。ある人は、病と闘っている人々に。ある人は、心が弱くなって寂しい人々に。ある人は、悲しい人々に。愛と希望を、平和と慰めを地の塩、世の光として福音を語りながら、執り成しの祈りをしながら注ぎ続けている。  主イエスは「あなたがたは地の塩であり、世の光である(マタイ5・13‐16)と語りかけておられる。私たちキリスト者はこの言葉に応え、今この時も、世に在って地の塩、世の光として福音を語り、執り成し祈り、他者と共に生きる者として歩み続けている。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年5月号より
私は新型コロナウイルス感染拡大が一日でも早く収束することを願う祈りによって一日を始めます。それは、私だけではない。代田教会の皆さんも同じでしょう。しかし、しばらく忍耐が続きます。その中で新型コロナウイルスによる影響が、生活のあらゆる場面で出ています。「コロナ以前」では当たり前だった行動も、「コロナ以後」では興味すら湧かなくなった人もいるようです。不安が不安を生むような毎日の生活になってしまっています。確かに様々なことを考えると不安は尽きません。しかし、毎日暗い顔をしていてもしょうがない。大切なのは「今、できることは何か」を考えることです。 私たちも毎週、教会に集って礼拝を奉げることが当たり前だったのがコロナの影響でなかなか教会に集うことが出来ない週が続いています。その皆さんのために教会が「今、できることは何か」を考えて、主日礼拝を教職と少数の奉仕者による礼拝とし、インターネットによって同時中継をし、後日、YouTubeあるいはFacebookのサイトから説教を聞くことができるようにしています。そして教職は二週間ごとに皆さんにお手紙と一緒に週報などを発送しています。 ジュニア科は毎週素敵な「ジュニア通信」を送りながら、「ジュニアタイム9」という題としてZoomでリーダー達とメンバー達とがお互いに顔をみながら共に御言葉を聞き、祈りを合わせています。子ども科は可愛くて素敵な「ひかりのことも」という題の子ども科通信を送っています。 私たちに与えられている状況の中で「今、できることは何か」を考えながら忍耐の時をお互いに支え合いながら乗り越えていきましょう。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年4月号より
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」       (ヨハネ16・33) 私たちは誰でも、いろいろな苦難を背負って生きています。その苦しみは人それぞれ様々です。「あなたがたには世で苦難がある」という現実を私たちはそれぞれに、様々な形で味わっています。それらの苦難の中で今、世界中の人々が不思議に同じ苦難に直面しています。新型コロナウイルス感染拡大によっての苦しみです。代田教会の皆さんも例外ではありません。普段、毎週礼拝に集い、そこで神様からの恵みと支えをいただいてそれによって生かされ、慰められる場である礼拝に集うことができなくなっています。その機会を失ってしまうことにこそ、最も深い苦しみ、苦難があるのです。主イエスは、皆さんのその苦難を、礼拝に集うことができず、神様の恵みと支えを毎週新たに受ける場に身を運ぶことができない苦しみをつぶさに知っておられます。そしてその苦難の中にある一人一人に「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と宣言して下さっています。私たちを神様の恵みから引き離す力は、主イエスの十字架の死と復活によってもはや打ち破られたのです。新型コロナウイルス感染拡大の力の前に無力であり、それに妨げられて礼拝に集うことができないという苦しみの中にあるとしても、私たちは、主イエスの勝利によって、神様の恵みと守りの中に既に置かれています。この主イエスの勝利によってこそ、世で多くの苦しみを背負っている私たちが、なお勇気を出して生きることができるのです。その主イエスを信じ、それぞれの場所で隣人を愛し、励ましの御言葉を語っていきましょう。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年3月号より
新型コロナウイルスのことでそれぞれの教会の中で内輪争いをしている状況が見られる。私たちは最善のコロナウイルス感染症に対する対策はすべきである。しかし、そのことで教会が内輪争いをしてはいけない。私達が気をつけるべきことには気をつけ、対策すべきことには対策をし、信仰者としてやるべきことはやっていくのである。だからこそ、私たちはここで神様に礼拝を奉げているのではないだろうか。そうしながら、ここに来られない方々のために配慮し、祈っているのではないだろうか。私たちは新型コロナウイルスについてそれぞれの意見を持っている。しかし、ここにいる私たちは皆、その意見を論じるためにここにきているわけではない。私たちそれぞれが持っている意見は自分からすれば、自分の意見がすべて正しくて、相手の意見は正しくないと思うが。そういうことを論じて、内輪争いをするために集っているわけではない。ある意味で私たちは、新型コロナウイルス感染症にさらされながら神様に礼拝するためにここにきている。ここに集って神の言葉を聞き、勇気を出して、希望を持ってこの一週間も生きようと思って礼拝に来ている。その喜びを内輪争いによって互いに奪い去ることがないようにしよう。 私たちはある意味で信仰の激しい戦いが行われている戦場の真ん中に立たされている気がする。常に忍び寄ってきて私たちを主が歩むようにと命じられる道からそらせようとする悪霊の誘いと戦う。だから、私たちの戦いは新型コロナウイルスのことで内輪争いするのではなく、今私たちがどこに向かって戦わなければならないのかの見分けが必要である。それは、真に主を主とする礼拝に生きる歩みである。   (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2020年1月号より
イスラエル(聖地巡礼)の報告 2019年11月イスラエルの旅(8日間)に行ってきました。人との出会いも天気にも恵まれ、豊かな旅となりました。今回の旅は主イエスが生まれ、育ち、伝道活動し、生活した所々を中心に回りました。 1日目は、成田から香港経由で、機中泊。2日目は、テルアビブに到着後、カイザリヤの半円形劇場、使徒パウロが幽閉された港町、導水橋を見学し、昼食後にイエス様の故郷ナザレに行って受胎告知教会と聖ヨセフ教会を見学し、ガリラヤ湖へ移動。ガリラヤ湖の周辺にある山上の垂訓で有名な祝福の丘(山上の垂訓教会)を見学し、タブハのペテロの召命教会、パンと魚の増加教会、カペナウムの会堂跡などを見学。そこで「聖ペテロの魚」を食べました。魚を丸ごと油で揚げたものでした。味は丁度いい塩味でしたが、日本の醤油を少しかけるとさらに美味しく食べられます。午後はマグダラ、ガリラヤ湖を遊覧船で楽しみながら、一緒に旅している人々と「ガリラヤの風かおる丘で」を歌いました。イエス様と弟子達との様々な出来事があるガリラヤ湖ですが、きっとイエス様と弟子達もこのように歌を歌いながら、そして様々な出来事を話しながら船から見える砂漠の山々を眺めたことでしょう。それらのことを思い描く、とても幸せな時間でした。4日目は、ガリラヤ湖からヨルダン渓谷を通って、イエス様が洗礼を受けられたヨルダン川を見学。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、旧約聖書にも繰り返し現れ、「棕櫚の町」として知られている最古の町エリコへ移動。そこでザアカイの木などを見学し、死海文書が発見されたクムランの遺跡を見学。死海に移動し、死海浮遊体験を楽しみました。5日目は、オリーブ山よりエルサレムを展望、イエス様の祈り場のゲッセマネの園を見学。私は様々なことを考えさせられました。イエス様が弟子達と最後の晩餐を終えて、処刑前夜に死を苦しみながら神様に祈った最後の場所であり、弟子のユダに捕えられた場所です。オリーブの木が立ち並ぶこの場所から、これから歩まねばならない十字架の道エルサレムが見えます。自分が歩む十字架の道が目の前に見える場所で祈られたイエス様はどんな思いをしながら祈ったのだろうかなど、様々なことを考えました。ゲッセマネの園に万国民の教会があり、その内部の講壇の前には、主イエスが祈ったとされる岩の一部が置かれています。そこで私達も祈ってからイエス様が歩まれた十字架の道、旧市街 (ステパノ門、ヴィアドロロサ、聖墳墓教会、嘆きの壁など)を徒歩見学。その後イエス様の生誕地ベツレヘムに行きました。6日目は、ダビデの町(ウォーレンの縦穴、ギホンの泉、シロアムの池など)、シオンの丘(最後の晩餐の部屋、ダビデの墓)、鶏鳴教会、園の墓、マハネーユダ市場などを見学。7日目は、エルサレムから香港経由で帰国。 イエス様の歴史は神の国から始まって神の国で終わります。その間、イエス様はこの地上での歴史を持っておられます。そのイエス様がこの地上での生涯を歩まれた場所イスラエル。その聖地に実際に行って、この目で見、この手で触り、この体全身で触れながら体験しました。その喜び、その感激は、その聖地に行って体験しないと言葉では表現しきれないことがたくさんあります。今回、このような体験が出来たことを神様に感謝し、代田教会の皆さんに感謝しております。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2019年12月号より
毎年恒例となっている教会・幼稚園バザーは、今年も恵みのうちに無事終了しました。前日の夜、雨が降った様子はあとかたもなくなり、気持ちの良い秋晴れの朝を迎えてバザーを開始することができました。 私は毎年のバザーを通して不思議なことを感じています。毎年同じ空の下の同じ場所で行なわれていますが、毎年違う雰囲気と違う香りを感じています。それは、毎年違う新しい一日だからです。その新しい一日のバザーのために、長くは一年をかけて、短くても最低一週間前から準備をしてくださる方々がいます。力を合わせ、お互いに協力し、心を一つにしてこのバザーを造り上げています。教会と幼稚園が一つになって行なわれています。これら全ては人間の業ではなく、頭である主イエス・キリストの教会につながっているからこそ出来た業です。その神様に感謝し、来年の新しい一日のバザーを楽しみにいたしましょう。  バザーが終わり、アドベントを迎える準備をし、新たな心でクリスマスまでの日々を歩もうとしています。そこで、私はアドベントを迎える少し前からイスラエル旅行をすることになりました。なんと今年のアドベントはイスラエルで過ごすことになります。実は、この会報の原稿を書きながら気づいたことです。この時期にイスラエル旅行に行くのには大きな意味があるように思いました。新たな心でクリスマスまでの日々を歩もうとするアドベントの時期に、主イエス・キリストがお生まれになり、育ち、弟子たちと共に伝道しながら歩まれた町々、2千年前の主イエスの歴史の場に私も入り、歩き回る。この目で見ながら、体で触れながら、様々な体験をするのです。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2019年9月号より
今年も「YMCA東山荘」で8月4日(日)から6日(火)まで子ども科サマーキャンプが行われた。テーマは「主の祈り」であった。 「主の祈り」は、主イエスが弟子たちに教えて下さった祈り、そして今主イエスの弟子として生きている私たちにも教えて下さった祈りである。子どもたちと共に天を見上げながら「天にまします我らの父よ」と、主イエスと共に歩む祈りのキャンプであった。子どもたちと共に東山荘の芝生広場を走り回りながら、空の鳥をよく見ながら、野原のお花を見ながら、山に登りながら、ごはんを食べながら、助け合いながら、主イエスが教えてくださった「主の祈り」の言葉を思い出した。そして、私たちと共に旅をしてくださる主イエスの声を聞きながら「アッパ、父よ」と子どもたちと共に祈り歩む時であった。「主の祈り」を深く味わうプログラムの中で子どもたちは祈りの言葉を考えながら、自分の言葉で神様に祈ってみた。神様が遠い存在ではなく、主イエスと共に歩みながら祈っている私たちの近くにおられることを体験した。それは、自然の中で子どもたちが共に礼拝をしながら、讃美を歌いながら、それぞれの活動をしながら、私たちに与えて下さったすべてのものに触れながら、体験したのである。それは、このキャンプのために祈りながら準備したリーダーたちの労苦があったからである。プログラム一つひとつをそれぞれのリーダーが担当し、作り上げたからである。さらにこのキャンプを盛り上げてくれた青年たちの協力があったからである。何より、神様がリーダー一人一人を用いて下さり、このキャンプに参加したすべての者たちと共にいて、守り導いて下さったからである。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2019年8月号より
例年同じ場所で行なっているが、確かに違うものがある。それは空気が違う。風が違う。少し変化している環境が違う。なりよりそこにいるジュニア科メンバーが違う。 今年もジュニア科ワークキャンプに行って来た。東京から北に150キロ離れた那須の地にある。20ヵ国から60名の人たちが、世界の農村の将来のビジョンを描くために共同体を作り、共に学んでいるユニークな学校、アジア学院である。そこでジュニア科メンバー11名とリーダー8名が二泊三日共にワークキャンプをしながら、共に生き、共に食べ、共に学んで来た。色んな国から来ているアジア学院の学生たちと出会い、共に農業をする。そこでは、私たちの体全体にかぶせるような不思議な匂いが漂う。なかなか慣れない独特な匂いが、アジア学院でしか味わえない懐かしい匂いでもある。そこで英語での新しい会話が生まれる。英語での会話は少し緊張感があるが、刺激を伴う希望も見えてくる。それは、英語をもっと勉強しようという刺激と知っている英単語でしゃべってもなんとか通じるという希望が生まれてくる。そして共に生き、共に食べ、共に学ぶことによって、世界をもっと近くに感じる。顔色、文化、言葉は違っても、共に生きる中ではそのようなものは問題ではない。「共に」という言葉の意味の理解さえあれば良い。そし て、ジュニア科メンバー一人一人がそれぞれ異なっているが、それらを互いに尊重し合いながら配慮し、協力していくことができる。そして共に生きる大切さを体験しながら学んでいく。それだけではない。神様が私たちに与えてくださった贈物(プレゼント)を発見し、ビジョンを描いていく。  (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2019年6月号より
毎月第1主日の昼食担当の時は、青年会メンバー達の手作りのお食事を提供しています。しかし、今年4月からは、新しい思いで、青年会メンバー達とジュニア科メンバー達が一つになって昼食を作って、教会の皆さんに提供することにしました。メニューは、ハヤシライスに盛りだくさんの野菜サラダがつきます。集合は9時半ですが、9時礼拝が終わってから始めて、午後1時半くらいまでは何かしら作業をしているので、どのタイミングに来ても、一緒に作業をすることができるようになっています。 お米を計り、洗って炊く準備をする人がいます。野菜を洗う人がいて、その野菜を切る人がいます。そしてまた、切った野菜を綺麗に盛り合わせる人がいます。玉ねぎの皮をむいてくれる人がいて、その玉ねぎを切ってくれる人がいます。それぞれ違う作業をしますが、青年会メンバーはジュニア科メンバーに気を配りながら、ジュニア科メンバーは青年会メンバーに気を配りながら、お互いに気持ち良く一緒に楽しくやっています。そうする中で不思議な光景が見えて来ました。それを見て、ある青年が言いました。それは、お互いの関係性が深まって行っているということです。高学年が低学年に優しく声をかけながら一緒にやっていることでジュニア科メンバーの手伝いが増えていました。その光景を見ながら伝道することってこういうことだなと感じたと言いました。心を一つにして一緒に楽しくハヤシライスを完成しています。 その光景は教会の皆さんが見て感動するくらい素晴らしいです。とても嬉しいです。その光景の暖かい風が食事をする皆さん一人ひとりに吹いて行っていると思います。(牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2019年5月号より
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何も出来ないからである」(ヨハネ15・5)。 私は主イエスと出会い、その出会いから、人と人との不思議な出会いにつながっていることを体験しております。それは、私だけではありません。私たちが主イエスと出会ってつながることが人生の様々な場面で起こります。そこで私は時々思います。私たちが主イエスにつながっている事で、私たちは主の枝として、どこまでつながっているのだろうか。きっと、私たちの想像以上につながっていることは何とか分かっていますが、ピントと来てないところがあると思います。けれども、3月に青年達と共に韓国訪問に行って、不思議な出会い、驚くべき出会いによって分かりました。私たちが主イエスにつながっている事で、異国に来てもつながっていることを自覚しました。そして、不思議な出会いによって、またそこから新しい出会いが生まれます。そしてまたそこからつながっていくのです。主イエスが私と出会ってくださったから、代田教会の皆さんと不思議な出会いがあり、そしてまた、そこから新しい出会いが生まれ、つながっていくと同じです。4月に愛の友協会を訪問しました。素晴らしい一日を愛の友協会の皆さんと過ごす事ができました。それも、私たちが主の体である代田教会につながっていることで、新しい出会いがあり、つながっている事と同じです。それら全ては、私たちが主イエスにつながっているからこそ、豊かに実を結ぶ不思議な出会いです。  (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2019年4月号より
3月20日(水)から24日(日)まで、代田教会青年5人と共に韓国訪問に行ってまいりました。今回、青年たちと幸せな時間を過ごすことができましたこと心より感謝しております。 今回、代田教会青年達と共に韓国に行ってきたことは私にとって、大きな意味があります。それは、代田教会青年たちと共に韓国に行って、韓国の教会に触れ、そして韓国の教会の方々とお交わりが出来れば、との願いがあったからです。小さな願いでありましたが、今回そのことが実現出来たことは、大変嬉しいことだと思っております。言葉と文化が違う韓国の道を青年達と共に歩き回りながら、様々なことを耳で聞き、目で見ることが出来ました。言葉と文化が違うからこそ、体験できたこともあるでしょう。何より様々な出来事の中で、不思議な出会いの交わりの中で、国を越えた何かを、文化を越えた何かを感じたことでしょう。そして、それらのすべての中で、私たちと共にいてくださる神様はこの韓国でも生きておられ、その場その場で私たちを導いてくださっていることを感じることが出来たことでしょう。それらをこの日本で主の御用のために生かせたらいいなと願っております。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2019年3月号より
山の向こうから暖かい風が春を知らせながら、私たちのところにやって来ている。冬の厳しい寒さを耐え、枯れたかのような木から、植物から芽が出てくる季節である。この季節に、私たちはレント(受難節)、主イエスの十字架への道を仰ぐ時を過ごしている。私たちは、当時の祭司長たちや長老たちのように「主イエスを十字架につけろ」と叫び続けてもいない、ペトロのように「三度、主イエスを知らない」とも言っていない。逆にそう言ってしまった彼らに向かって、私はあなたたちとは違う、私なら、絶対そのようには言わない、と思う人もいるかもしれない。 けれども、私たちも神様を信じながら、神様とある程度の距離感を保ちながら自分の都合がよい範囲で信仰生活をしているところがある。言葉には出さないが、心の奥底では自分で神様との関係を断ち切っておきながら知らん顔で歩んでいるところがある。いや、私たちも群衆の中のひとりではないだろうか。主イエスがろばに乗ってエルサレムに入って来られる時には、主イエスの道に自分たちの服や木の枝を切って道にしき、主イエスの前に行く者も後に従う者も「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(21・9)、と叫んだ群衆であった。けれども、死刑の判決を受ける主イエスの前では、人々の間に紛れ込んでいれば自分の存在はそんなに目立たないと思い、だから、もっと大きな声で「十字架につけろ」と叫び続けている群衆の一人になってはいないだろうか。「十字架につけろ」と叫び続ける自分の声を落としましょう。そして、「神様に立ち返れ」という主の声に耳を傾けて行きましょう。     (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2019年2月号より
「アッバ、父よ」と呼びかけることで始め「アッバ、父よ」と呼びかけることで終わる一日。主イエスと旅している私たちは毎朝起きて天を仰ぎながら「アッバ、父よ」と呼びかけることから一日を始めます。その時、自分の心の中を見詰めるのではなく、暗い一日を想像するのでもなく、新しい一日を生かされていることにまず感謝します。新たな心と思いをもって、主イエスの確かな希望の中を、主イエスと共に生きる一日の旅を、祈り求めます。 しかし、その一日が私たちにどのように開いていくかはよく分かりません。私たちが願い求めたことと違う一日となるかもしれません。私たちが思っていたよりも厳しい現実が待っている。私たちが願い求めたにもかかわらず、病と戦わなければならない。苦難に遭わなければならないかもしれません。それらの出来事の中に、何も出来ない小さな自分がいます。しかしその時、何も出来ない小さな自分を見詰めるのではなく、暗い現実を見詰めるのでもなく、私たちの環境や状況や思いを遥かに超えて働かれる神様を仰ぐのです。私たちに確かな希望を与えてくださり、良しとされる一日を与えてくださる神様を仰ぎながら、「アッバ、父よ」と呼びかけるのです。そして、主イエスと共に旅している者として、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる」という御言葉を思い起こすのです。神様にすべてお任せする一日の中で、確かにここに生きておられ、これらのすべての中で働いておられる主イエスと出会います。その時、「アッバ、父よ」と感謝の祈りを奉げながら終わる一日を迎えることになるのです。(牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2018年12月号より
◇「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2・11)。 ◇クリスマスおめでとうございます。主イエスは二千年前にお生まれになられました。その主イエスのお誕生をお祝いしながら、再び、この世に来られる主イエスを待ち望みながら、「主イエスよ、来てください」と言われる皆様の上に主の平和と恵みがありますように。 ◇どうして私にこんなことが起きているのか、自分だけが失敗しているかのように思って落ち込んでいる。人には言えない悩みで眠れない日々を過ごしている。その繰り返される日常生活の中で愛も希望も失ってしまっている。どこにも平和がないかのように思う。それぞれの場所で、それぞれの悩みを抱えながら、暗い夜、恐れを感じながら過ごしている私達にも主の天使が近づき、こう言ってくださいます。「恐れるな」。 ◇その時、主の光が私達の暗い心を、震えている体を、暗い部屋を、まっすぐに照らしてくださいます。この私が、人生に行き詰ってもう私は駄目だと思っている、望みを失っている、その時に、神様は「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言ってくださるのです。厳しい現実の中にあって、どこにも救いが見つけられない自分のために、誰からも顧みられない自分のために救い主が生まれてきてくださったのです。お城にではなく、宿屋にでもなく、普通の家にでもなく、飼い葉桶の中に生まれてきてくださいました。私たちが神さまに深く愛されていることに、その救いのしるしを見せていただいていることに感謝しながら声を高く上げて心からの讃美をささげましょう。   (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2018年11月号より
◇青空の下、紅葉の木に囲まれている庭。その庭に紅葉の葉が風でぱらぱら落ちている。その庭で生き生きとした声が聞こえてくる。楽しくて嬉しそうな大人の声も子どもの声も聞こえてくる。それは、毎年恒例となっている教会・幼稚園バザーが開かれている代田教会・幼稚園の庭から聞こえてくる声である。今年も気持ちの良い秋晴れの朝を迎えてバザーを開始することができた。教会と幼稚園が一緒に協力しながら、一つになって作り上げてきたバザーである。だからこそ、毎年皆が共に素晴らしい一日を作り上げることができる。 ◇それは、教会と幼稚園を通して神様が行なう大きな業である。今年もその素晴らしい業を教会と幼稚園とが一緒になって作り上げることができた。それぞれのグループが物を仕上げてきた時間は異なるかもしれない。 ◇けれども、それらの物はすべて心を込めて一つひとつ丁寧に作った手作りの物である。幼稚園のお父さんたちが子どものために作った段ボール迷路は代田教会・幼稚園バザーのみにある物だと思う。 ◇それは、なかなか真似できない素晴らしい工作である。幼稚園のお母さんたちの様々なコーナーはすべて楽しみながら、買い物をすることができ、美味しく食べ、飲むことができる。教会の婦人会の様々なコーナー、特に今年から今までのカレーと違ったドライカレー、チヂミーコーナーも新しく手作りの美味しい食べ物が出された。壮年会の焼き鳥、青年会の焼きそば、ジュニア科のコーヒーコーナー、子ども科の工作コーナー、古本屋があった。秋南教会など、外からも来て下さり、一緒に盛り上げながら、楽しんでいる代田・幼稚園バザーは、これらのすべての人々が一緒になって作り上げているバザーである。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2018年10月号より
◇「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15・5)。 ◇主イエスはぶどうの木、私たちはその枝である。わたしはいつも、主イエスのぶどうの木はすごいなぁと思います。主イエスのぶどうの木につながっている枝である私たちは、どんなに遠くにいてもつながっているのです。そして、その枝である者は今もなおつながり続けているのです。町を超えて、地域を超えて、国を超えて、文化を超えて、歴史を超えて、今もなおつながって、つながっていくのです。先日、私たちもその一部分として主イエスにつながっている兄弟姉妹であることを感じ、神様に感謝を奉げる時を持つことができました。 ◇9月29日(土)から30日(日)まで、長野の信州教会で青年会修養会が行なわれました。代田教会青年達11名と信州教会の青年達5名が共に座って、礼拝を奉げ、讃美を歌い、お祈りを奉げ、お互いに信仰を分かち合うことができました。なんという恵み、なんという喜びでしょう。開会礼拝が信州教会の上山耕平先生の司式と説教とをもって始められました。上山先生は神学校時代、代田教会で神学生としてご奉仕されました。そのつながりで、両教会の青年達が共に座って修養会を行なうことができました。一緒に交流の時間を持ちながら、互いに信仰を証する時を持つことができました。それぞれの地域で信仰生活をしているけれども、主にあって私たちは一つであることを感じる時となり、主の喜びがそこにもあることをお互いに感じさせられました。(牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2018年9月号より
◇手を支えられて一歩一歩、10分、20分、30分、時間をかけてゆっくりと歩きながら教会の門に入って来る。階段を上ったり降りたりして、やっと電車に乗って教会の門に入って来る。誰かの助けを頂きながら何とか教会の門に入って来る方々がおられます。毎週教会の門に入って礼拝をしたくても、それが中々出来ない方々が教会の門に入って来られます。その一人ひとりは80歳以上の方たちです。80歳以上ではなくても、毎週それぞれの仕事を中断して教会に来る私たち一人ひとりがいます。それらの者すべてが共に福音に仕えています。 ◇ここに集められている私たちは何の問題もなく来ているのではありません。それぞれの場所から教会の門に入るまでどれほど体が疲れることか。仕事、家庭など様々な課題もあります。けれども、教会の門に入って礼拝堂に座って共に礼拝を捧げる喜びはどれほど大きなことでしょう。その喜びへの希望をもって、一歩一歩歩いて教会へと向かいます。私たちは、ここに集められて共に礼拝し、共に賛美し、共に励ましあいながら共に福音に仕えている者たちです。 ◇私たちは「共に」という言葉を時に忘れてしまうことがあります。教会に来ていても周りの人々が見えなくなる時がある。そして自分だけで信仰生活をしていると思ってしまうことがあります。確かに教会には色んな人々が集められています。自分たちと合わない人がおり、時には自分の意見と違って喧嘩になる時もあります。腹が立ち殴りたくなる場合もあるでしょう。◇けれども、私たちは主にあって造られた共に信仰に生きる群れです。この群れの中でみんなが共に信仰の生活を励み、主によって健やかに育てられて行くことでしょう。(牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2018年8月号より
◇この夏、ジュニア科キャンプと子ども科サマーキャンプに行って参りました。ジュニア科ワークキャンプは「外の世界を見に行こう season11」というテーマとして2泊3日で那須塩原市にあるアジア学院で行いました。毎年行く場所ですが、毎年不思議さを感じる場所でもあります。それは、私たちがキャンプに来ているところは、日本にあるアジア学院ですが、このキャンパスで共に生活する学生たちは、ほとんど外国人の学生たちです。 ◇さらに、日本なのに、日本語ではなく、英語で会話しています。けれども、国籍、宗教、民族、習慣、価値観などの違いを認めつつ、公正で平和な社会実現のために、実践的な学びを行なっている学生たちです。その中でその学生たちと共にワークキャンプをしていると、私たちも外国に来ている感じがします。特に二日目の朝のワークキャンプの私のグループは、なんとそれぞれ違う国から来ている牧師たちでした。 ◇そこで、さらに私は不思議さを感じ、アジア学院でのジュニア科ワークキャンプでの意味を再び感じることができました。◇子ども科サマーキャンプは、「主にしたがって」というテーマを持って「YMCA東山荘」で行いました。毎年、素晴らしいプログラムを組んで準備してくださっているリーダーの皆さんと子ども科キャンプのために協力してくださるヘルパーの皆さんといきいきとしている子どもたちとが共に3日間過ごしながら、お互いに楽しいキャンプを作っていくのです。 ◇今年も、御言葉に触れながら、一つ一つのプログラムの中で、みんなが「主にしたがう」こととは、なんと嬉しいことか、なんという幸せか、なんと心強いかを体験することができた子ども科キャンプでした。 (牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2018年6月号より
◇ある日、聖書の手紙書のところを読もうとした時でした。ふっとこのような思いが頭に浮かんできました。もし、神様が牧師になった私に手紙を書いてくださるとしたら、何と書かれるだろう、と思いました。 ◇「父である神に愛され、イエス?キリストに守られ、聖霊に導かれている召された我が僕であるジェイへ。◇主の愛と平和と憐れみが、あなたにますます豊かに与えられるように。◇牧会に励み、福音に前進して行きなさい。あなたが歩んでいる道は決して楽な道ではない。主イエスが歩まれた十字架の道である。その道は、孤独な時もある。喜びと悲しみとが伴う日々の中で、天を仰ぎながら「アッパ、父よ」と祈る時もある。自分の思い通りではなく、御心のままにと願う祈りもあるだろう。 ◇しかし、主イエスが十字架に付けられ、三日目に復活されたことを思い出してほしい。その神様が昔からあなたを選び、あなたを守り導いていること、あなたをどんなに愛しているかを思い出してほしい。あなたが一人ぼっちだと思っていた時も苦しくて、悲しくて、泣きながら祈っていた時も、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28・15)という言葉に支えられて来たことを思い出してほしい。 ◇あなたに与えられたすべてのものに「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」。繰り返し、わたしの言葉を思い出しながら、勇気を出しなさい。そして、福音に前進して行きなさい。◇あなたに平和があるように。(牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2018年5月号より
◇「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1・8) ◇主イエスの奇跡は今も続けて起こっています。この私に、そして、私たちひとり一人に起こっています。それは、私が今ここにいること、そして、牧師按手を受けたことなど、神様しか出来ないことであるからです。不思議な導き、不思議な出来事、不思議な出会いなど、これらのすべては私が主イエスと出会ってからいただいている神様からのプレゼントです。それらの全てのことによって、私は不思議な人生を、不思議な体験をさせていただいており、奇跡の場に導かれています。 ◇私が主イエスと出会ったのは小学1年生の時でした。その時から私はずっと暑くても、寒くても、雨が降っても、いつでも日曜日になると必ずその教会に行きました。教会は山を越えてから、またさらに15分ぐらい歩いていったところにありました。その道がどんなに厳しくても、それを忘れるくらい教会に行くのが大好きでした。 ◇中学生の時、先の御言葉に触れました。それは、友たちと世界宣教師派遣祈り大会に参加した時でした。そして、思いがけず私の口から「神様、私は日本に行って福音を宣べ伝えます」という祈りが出てきたのです。神様はその時、その場で、私の口から祈ったことを覚え続けてくださいました。そして、かなり遠回りをしましたが不思議な神様のお導きによって日本に来ることができました。現代インターネットを開いてグーグルの地図で探しても見つからないほどの田舎者が日本で牧師になりました。これこそ、奇跡ではないでしょうか。(牧師 裵在伊)

○代田教会会報 2018年3月号より
◇3月に幕山をハイキングしてきました。「幕山」の山麓斜面に、約4千本の紅梅・白梅が綺麗に咲きほこり、園内は梅の香りに包まれていました。梅を見ながらのんびりと山歩きができました。雨が上がった後の梅の景観は素晴らしいものでした。梅のお花が風でチラチラ落ちている道を通りながら登る山道は私をわくわくさせました。「幕山」はそんなに高い山ではないけれども、山から眺める風景は素晴らしかったし、私を圧倒させるには十分な山でした。 ◇「幕山」は春の新しい風が吹いていました。梅の花と香りを載せた風がふっと吹いて来て新しい春を感じさせました。私たちの目には完全に枯れているように見える木から新しい芽が出始めました。岩と岩の間に苔が生きていました。落ち葉に隠されているところから新しい植物が出初めていました。それら全てのものは新しい春を知らせていました。私の心も思いもいつの間にかそれらに捕らわれていました。 ◇「幕山」のハイキングの道中には日本東北大震災の影響で山から落ちてきた落石がありました。その落石はびっくりするくらい大きかったのです。東北大震災がどんなに大きな地震であったか、影響があったかがその落石を見ても分かりました。その時もこの山道を登っていた人がいたことでしょう。そして、今もこの山道を通るたんびにこの落石を見ながら、日本東北大震災のことを思い出し、忘れないことでしょう。正直私はその時のことを少し忘れかけていました。 ◇けれども、この落石を通して再びその時のことを思い出し、今なお東北大震災のことで苦しんでいる人々を思いながら祈ることができました。主の大きな慰めがありますように。(伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2018年1月号より
◇年を重ね、少しずつ体が弱って来て中々教会に来られない方々のために、12月に平野先生と何人かの教会員と共にクリスマスの訪問聖餐に回りました。今回のクリスマスの訪問聖餐も喜びが溢れている訪問となりました。教会に来られない方々の中には様々な理由があり、それぞれの事情があります。特に年を重ね、体が弱って来て教会に来られなくなった方々が多くおられます。教会に行って皆さんと共にクリスマス礼拝を捧げたいという気持ちがあるとしても、この礼拝堂までは来られない。それぞれの場所で待っているしかないのです。 ◇その方々のところに教職は出かけて行きます。その時間は訪問する方もされる方も喜びに溢れる時となります。それは、ただ牧師、伝道師、教会員が来たからという喜びだけではない。小さなクリスマスの礼拝が献げられる。その礼拝の中で共に讃美歌を歌い、祈りを捧げ、御言葉を聞き、聖餐をいただく喜びがある。その出会いとお交わりの中に主が共にいてくださっていることが感じられる。それらのすべてのことによって、教会に行きたくても行けないわたしのところにも、主イエスが来てくださったという喜びと感謝の賛美を神様に捧げられるからです。 ◇そこには悲しみや苦しみを超えた確かな救い主との出会いの喜び、感謝があるのです。年を重ね、体はどんどん弱っていく一方である自分のところにも来てくださって「恐れるな」と言ってくださる。教会には行き行きたくてたまらなくても行けなくて寂しい時を過ごしている自分のところに来てくださった。救い主イエス・キリストがそれぞれの場所で、それぞれの方々と共にいてくださっていることへの感謝の喜びです。 (伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2017年12月号より
◇「我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ。暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ1・78-79)。 ◇今年のクリスマスの礼拝において何人かが新たに洗礼を受けられます。何と嬉しいことでしょう。主イエスを信じ、主イエスの十字架と復活によって、この私にも罪の赦しによる救いの場に入ることができるという喜びの出発です。 ◇そして、その喜びの出発をする兄弟姉妹がこの代田教会の群れに加わる喜びの日です。あけぼのの光、つまり、主イエスは洗礼を受けるその方々の上にも訪れてくださり、その一人ひとりを照らし、歩みを平和の道に導いてくださることでしょう。 ◇代田教会では、色々な事情で今は共に礼拝を守る事が難しくなった方々を覚えて、クリスマスの訪問聖餐を行っています。それぞれの所で小さなクリスマス礼拝を行い、その礼拝において聖餐をいただく喜びが与えられています。その時、あけぼのの光、主イエスは、訪問先で礼拝を捧げる我らのところにも訪れてくださっていることが感じられます。今このところでも主イエスが訪れてくださり、教会に連なる兄弟姉妹と共に小さな礼拝と聖餐をいただくことが出来る。あるいは教会での豊かな交わりを思い出し、ほっとする時間が与えられている。主イエスの訪れのこれらの喜びに感謝があふれます。 ◇そのあけぼのの光である主イエスは病室や、あるいはご家庭の小さな部屋にも、どんな所であっても、訪れて下さり、その人に力を、あけぼのの光を与えて下さるのです。メリークリスマス!  (伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2015年12月号より
◇今年も一番早く窓から窓へとアドベントを伝えている人々がいます。その人々とは、イエス様のお誕生を待ちながら歌っている幼稚園の子どもたちです。その声は、「アドベントクランツにあかりがつくと、かみの子イェスさまのおたんじょうがちかくなる。まことのひかりイェスさまのおたんじょうをみんながまっています。みんながまっています」と大きな声で歌います。それは、代田教会の幼稚園の子どもたちだけではありません。代田教会の皆さんも、いや世界のキリスト者たちも皆、神の独り子イエス・キリストのお誕生を待ち望んでいることでしょう。世界のキリスト者たちが、アドベントクランツにあかりがつくと共に、真の光イエス・キリストのお誕生の喜びを歌いながら待つでしょう。私もまことの光としてこの世に来てくださった御子主イエス・キリストのお誕生を、違う窓から、幼稚園の子どもたちと共に歌いながら待っています。 ◇アドベントに入る第一週には、一本目の蝋燭に火を灯します。私は灯ったその蝋燭の火を見ながら思うことがあります。光を輝かせるためには、蝋燭の芯を燃やして小さくしならなければ、火が消えてしまいます。そのように、光としてこの世に来てくださった主イエスも同じではないか、と。そのアドベントの蝋燭の火を見ることによって、私たちを暗闇から救おうとしてこの世に来てくださった主イエスを見ることが出来ます。私たちがこの世の光の子どもとして生き、周りの人々に光の子どもとして光を届けるために、主イエスは私たちの代わりに十字架に死んでくださり、復活され、今も私たちと共におられます。主イエスは、私たちに「あなたがたは世の光である」と語ってくださっています。主イエスのお誕生を待っている私たちがこの世の光の子として、この世を歩いていきます。真っ暗なところを照らして、輝いていきます。それがどんなに小さな光であっても周りを明るく照らします。なぜなら、私たちを通して主イエスが輝いてくださるからです。   (伝道師 裵 在伊

○代田教会会報 2015年11月号より
◇9月20日から23日まで、3泊4日で麦の会のメンバー6人と一緒に東北教区被災者支援センター・エマオに行って参りました。フィールドツアーとエマオでのワークを行いました。 ◇その時、被災地に立っている私に、まるで風のように違う空気が漂って来ました。その風は誰にも言えなくなってしまったかつての幸せの風でした。それは、ある方々が家族と一緒に生活しながら楽しく食事をしていた幸せの風、ある方々がたんぼや畑で、村の人々と一緒にわいわいと感謝の収穫をしていた幸せの風、子どもたちが生き生きして学校に登校していた幸せの声の風でした。 ◇しかし、今私の目の前に見えている風景は違う。今までそばで一緒に生活した家族、友人、全てのものが突然なくなってしまい、激しく泣き悲しむ声が聞こえています。いや今は、あまりの驚きから泣き悲しむ声も出なくなってしまっている。ただ沈黙が被災地に流れ、その中で被災者たちは心の中で泣き、慰めてもらうことすらしなくなっているように思われました。全てが自分のところからなくなってしまい、その悲しみがあまりにも深いために、慰められることを拒否してしまったのかもしれません。被災者たちは「自分の家族が、友人が、もういない」という状況の中で、誰かの慰めはいらなくなってしまったのかもしれません。その方々を慰める、深い悲しみの中にある人々を慰めることは、たとえ似たような経験をしたとしても、それをもって慰めることは到底できません。いや、むしろ人は、どんなに慰めたくても、自分の力では本当の慰めを与えることができない、ただ途方に暮れるばかりです。だからこそ、その現状で私たちはその方々を、どのように慰めることができるだろうかという課題を負いながら、その方々のそばにいるのだと思います。今もその被災地でその方々に慰めを運ぶ者として働いているエマオのスタッフ、ボランティアの方々がいます。その方々は1日を始める前、神様に祈りをもって始めています。(伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2015年10月号より
◇わたしたちの信仰生活の中で、神様に「なぜ」、「どうして」という問いかけの祈りを叫ぶことがあります。そして、神様から遠くへ遠くへと離れて行く、下へ下へと向かって逃げていくことがあります。私たちが何かを任された時に、こんな人間である私がどうして、と言ってその場から逃げようとしてしまうことがあります。神様もっとふさわしい人がいるのになぜ、わたしがしなければならないのでしょうかと祈り続ける時もあるでしょう。あれこれ言い訳しながらその務めから、その場から遠くへ遠くへと離れていく、下へ下へと向かって逃げて行く自分の姿があるでしょう。そこから自分の目からふさわしいと思われる人を探しては、この人が、あの人がいるのにと思うのではないでしょうか。けれども、誰がその務めにふさわしい人を決めるのでしょうか。わたしたちの目ではないのです。私たちの目から見て判断するふさわしさではありません。その場で、その人を選んで遣わされるお方は神様です。人間から見るともっとふさわしい人がいるはずなのにと思うかもしれませんが、神様がご覧になられて、神様が、その時、その場で一番ふさわしい人を選び出し遣わされます。それは神様が一番出来ないと思っている私たちを必要とされているということです。私たちの中にも同じような経験があることでしょう。その時、神様が見て一番ふさわしい人は皆さん一人一人だということです。その時、私たちを選んで遣わそうとする神様がおられます。神様の御前ではわたしたちは何の言い訳もできません。私たちが想像する以上に、私たちが見ている以上に、神様は遥かにすべてのことをご存知のお方です。わたしが神様に教える必要はないのです。その務めに、その任されたことに感謝をもって従うことです。神様が今私たちのところに来られて、「わたしは誰を遣わすべきか」と呼びかけてくださいます。その時に、私たちは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答え、主イエスに従うのです。   (伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2015年9月号より
◇私たちは、自分の言葉が相手にどのように届いたのかと悩む時があります。特に厳しい言葉を、教会の兄弟や姉妹、または家族にぶつけてしまった時、わたしたちはその人々との関係が気になってしょうがなくなります。その人との関係がそこでもう終わりかもしれないと思い、心配になり、不安になります。あるいは反対に、相手からの厳しい言葉によって悲しくなったり、悩んだりする時もあります。そのような時、私たちは静かな心ではいられなくなります。心の中が悪い言葉でいっぱいになるのです。その日に相手から言われた言葉がいつまでも耳の中を、頭の中を駆け巡り、一体、これからどうなるんだろうかという不安が私たちの心の中にいっぱいになり、十分前にしたことを後悔する思いが沸き上がり、あるいは、人に対する憎しみや悔しさが溢れてきたりしてしまいます。 ◇しかし、主イエスは、今を生きている私たちの間にある敵意という隔ての壁を取り除き、和解を実現させてくださるお方です。悲しかったり、悩んたりして、心配と不安の時を過ごしている私たちの心の中に慰めを与えてくださいます。だから、私たちは破壊的な力に同化することなく、和解をつくりだすこの主イエスの力に結ばれていきます。そこから私たちは互いに赦しあう道へと一歩を踏み出すことができます。その一歩を踏み出したそこから、主イエスの赦しの香りは遠くまで広がっていきます。それは、私たちの力ではなく、主イエスの赦しの力です。その神様は「私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださる」(コリントⅡ2・14)お方です。香りは見えません。触ることも出来ません。形もありません。しかし、そのキリストの香りには驚くべき力があります。主イエスを信じている人は驚くべき力のキリストの香りをもっています。私たちの中にあるそのキリストの香りが他の人々にも影響を及ぼし拡がっていきます。その香りは、ここから漂い初め、遠くにまで広がっていくものです。(伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2015年8月号より
◇ 秋の空のように雲ひとつない青空、大きな木、小さな木が互いに緑色で連なっている山々、森で囲まれている「アジア学院」、「トーチベアラーズ」。けれども、どんなに涼しく見えても風は一切吹いてないむしむしと暑い夏。そんな中でジュニア科キャンプと子ども科サマーキャンプを主の恵みの中で行うことが出来ました。 ◇ジュニア科キャンプは2泊3日で那須塩原市にあるアジア学院で行いました。汗を流しながらジュニア科メンバーと一緒に夏のワークキャンプに参加させて頂きました。そのアジア学院はアジア、アフリカ、太平洋諸国の農村地域から、その土地に根を張り、その土地の人々と共に働く「草の根」の農村指導者を学生として招き、栃木県西那須野のキャンパスにて国籍、宗教、民族、習慣、価値観等の違いを認めつつ、公正で平和な社会実現のために、実践的な学びを行っている学校です。その人々と共にワークをしながらコミュニティを形成することの大切さを学ぶ時間でした。そして、平和で共に生きることって何かを考えさせられる時間でした。 ◇子ども科サマーキャンプは「イエスさまは命のパン」というテーマでトーチベアラーズ山中湖で行いました。主イエスは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と語られました。その命のパンである主イエスを信じることで、永遠の命をいただくこととは何か、主イエスを信じて生きることとはどういうことなのかを、子ども科リーダー一人一人と子ども一人一人が共に御言葉から学び、また、味わうキャンプの時間でした。開会礼拝から閉会礼拝まで、子どもと共に行うキャンプ、礼拝の司式や聖書朗読や祈りなどはの役割を子ども達が役割を担ったキャンプ、御言葉に沿ってそれぞれのリーダーがそれにふさわしい教案を準備して子ども達とともに考えながら楽しく分級の時間を過ごすキャンプ、最初から最後まで子ども達とともに行うキャンプでした。(伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2015年6月号より
◇「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。」(申命記3・24)。 ◇「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコによる福音書16・15) ◇5月11日は西南支区准允式が代田教会礼拝堂において行われ、私も補教師として准允を授けられました。引き続き17日は伝道師就任式が代田教会の礼拝において行われました。双方とも主の御恵みと御守りの内に、また、皆さんのご奉仕の内に、行われたこと、心より感謝申し上げます。 ◇私は神様の導きの中、ある先輩を通して2012年1月から代田教会で神学生としてご奉仕をさせていただくようになりました。その経過があって、さらに今日まで代田教会で伝道師としてご奉仕させていただいています。私にとって代田教会は特別な思いがある教会です。なぜなら、日本で初めての日本の教会、初めての神学生としてのご奉仕、そして、今まで聞いたこともない信徒伝道者としてのご奉仕、二度と信徒には戻らない伝道師としての最初の出発も代田教会だからです。これから伝道師として、もっと多くの方々に福音を宣べ伝える道が与えられている今の歩みに心から感謝しています。これからも学びを深めながら全てのことを神様に委ね、神様に祈りつつ、献身への道を一歩一歩前に進みたいと願っております。 ◇私が好きなお花の中でひとつはひまわりです。ひまわりはいつも太陽を探しては、太陽に向かって伸び、大きな花を広げます。私もそんなひまわりのように、ただ神様を探し、神様に向かって伸び、豊かな花を咲かせられればと願っています。 ◇ひ、必要は備えられる。ま、まっすぐに歩みなさい。わ、私が必ず共にいるから、り、凛々しく、大きな花を咲かせよう。 ◇今後も更に主の前にへりくだりキリストの体なる教会を通して主の御栄えのため、主にお仕えしていきたいと願っております。

○代田教会会報 2015年5月号より
◇「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(Ⅱコリント1・4)。 ◇4月から聖餐訪問を行っています。そこで小さな礼拝を行い、聖餐をいただくことによって、訪問した者もされた者も共に慰められます。神様に共に祈り、共に讃美を捧げる時、そこに満ちあふれている主の慰めを感じることができます。  ◇それぞれ違う苦しみの中にあるとしても、揺るぎない希望をいただいている者たちが共に神様に感謝する喜びがあります。そして、その揺るぎない希望の慰めをいただいた者としてそこから新しい歩みを始めていくことができます。主イエスからいただいた慰めはわたしで止まることはありません。わたしからあなたへと、わたしたちからあなたたちへと満ちあふれていきます。今日だけではなく、明日もこれからもずっとその慰めは満ちあふれ続いていくのです。 ◇その慰めは、わたしたちを通して、あらゆる苦しみの中にある人々、悲しみの中にいる人々に満ちあふれていきます。 ◇代田教会の皆さんはその慰めを運ぶ者として、4月には22名が千葉にある愛の友協会に出かけました。代田教会では年2回、愛の友協会を訪問し、車椅子での散歩のお手伝いなどをしています。代田教会としては年2回ですが、愛の友協会の方々は1年間ずっと待っておられるかもしれません。なぜなら、愛の友協会の方々は、代田教会の方々が訪問して車椅子を押しませんと、外に出かけることができない方々が多いのです。 ◇一緒に散歩しながら慰められます。豊かな自然の中できれいに咲いているお花を見ながら、畑に植えられている色々の野菜を見ながら、会話をしながら、交わりの時を持ちます。優しい風が吹いている中で、電車が走っている音、鳥が鳴いている声を聞きながら、畑でお仕事をしている人々に、歩いている人々に挨拶をしながら、私たちも愛の友協会の方々も共に慰められます。 ( 伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2015年4月号より
◇「キリストの光が私たちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように」と願っている中高生達がそれぞれの教会からひとつの場所に集まりました。その集まりは、福音主義教会連合関西部会が主催している第37回中高生修養会でした。今回の中高生修養会のテーマは「イエスさまは良い羊飼い~神様の声を聞き分ける者となるために~]でした。私はその中高生修養会に参加するため大阪に向かいました。初めての関西、出会い、どんな中高生達が集まるのだろうかなどの思いで少し緊張していました。心がドキドキしました。 しかし、中高生修養会が始まった瞬間、自分の緊張はなくなり、ドキドキしていた自分の心がワクワクしてきました。中高生とスタッフを合わせて85名くらいが集まりました。そのくらいの人数だと逆に緊張してドキドキするはずの自分の心がわくわくする心に変わったのです。それには理由がありました。そこに集まったスッタフと中高生は初めて会ったばかりなのにすぐに仲良くなったからです。互いに挨拶し、声をかけ合い、一人ぼっちにならないかという不安や心配をしなくても良い環境を作ってくれました。互いに主イエスのことを語り、真剣に受けとめました。また、「良い羊飼いである主イエスについて行こう」と互いに信仰の励ましをしていました。 ◇私は中高生一人ひとりの中で輝いている主イエスの光の希望を見ることが出来ました。「光の子になるため、従(つ)いて行きます。この世を照らすため、来られた主イエスに。主のうちに闇はなく、夜も昼も輝く。心の中をわが主よ、照らしてください」と賛美の声を聞くことができました。信仰の迷いがあるかもしれません。様々な問題があり、心の傷があるかも知れません。病があり、疲れがあって少し主イエスのところから離れるかも知れません。しかし、どんな時でも私たちと共にいてくださる主イエスに従おうとしている、最後まで「良い羊飼い」として私たちを導いてくださる主イエスに従おうとしている者たちでした。( 伝道師 裵 在伊)

○代田教会会報 2015年3月号より
◇代田教会の麦の会の声を書いたものがあります。それは、「麦とhope」というものであり、麦の会メンバーが教会員や代田教会と関係がある方々や他教会の青年たちなどに麦の会の活動を紹介するものです。わたしはこの代田教会で青年たちがそのようなものを発行したのは麦の会が初めてではないかと思いました。しかし、1970年度にも代田教会青年会で発行されたものがありました。それは、「複眼」、「ともしゆ」というものです。わたしは最近それを読むことにはまっています。その中で自分の頭から離れない文章がいくつかありましたが、その中でわたし自身にも問いかけ、考えさせられる文章がありました。北島敏之先生が書いた文章です。それは、ある少年が犯罪をおかして、鹿児島の少年鑑別所に送られてきた時の会話の一部分です。「『君は今までに、ほんとうに何でも話のできる友人、先生、あるいは親があったか』と聞いてみたところ、その答えは『そんな人はいない』という言葉であった」ということです。すなわち、その少年には自分の大事な問題や悩みをほんとうに心から相談が出来る人がいなかったということでした。 ◇このような問いは、この少年だけではないと思います。わたしたちにも、いやわたし自身にも問われることではないかと思います。その時、わたし自身に違う形で問いかけてみました。「わたしは、人がほんとうに何でも話の出来る相手であるのか。人が大事な問題や悩みなどでわたしのところに来て話せるような存在であるのか」と。つまり、わたしは悩みや苦しみを持っている人の友達になっているのか、という問いです。 ◇正直その答えは厳しいものと言わざるを得ません。わたしに助け求めている人がいるのに、その人がほんとうにわたしを何でも話の出来る人だと思っているのに、わたしの方が忙しいことや、悩みや問題を抱えているために、自分のことだけに夢中になってしまい、その人の悩みや苦しみの声が聞こえていなかったのではないだろうかと。(信徒伝道者 裵在伊)

○代田教会会報 2015年2月号より
◇神様は私たちを毎日祝福の旅へと誘ってくださいます。私たちの日常生活は、良いことより悪いことばかりを考えながら生きていることが多いのではないかと思います。そのために時々眠れないような夜を過ごす方や、ほとんど夜眠れなくなってしまう方がおられるかもしれません。そのような時私たちは静かな心でいられなくなってしまいます。心の中が悪い言葉でいっぱいになるからです。その日に友達から言われた言葉がいつまでも耳の中や心の中を駆け巡ったり、さらにいったい、明日はどうなるのだろうかという不安でいっぱいになったり、少し前にしたことを後悔する思いでいっぱいになったり、あるいは、人に対する憎しみや悔しさの言葉でいっぱいなったりしてしまいます。私たちの毎日は人にいろんなことを言われて過ごす毎日だからです。 ◇それに比べて人からいい言葉や祝福の言葉を聞くことはあまりないかもしれません。けれども、神様は違います。神様はいつも良い言葉を語ってくださいます。祝福して下さいます。 ◇「あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記12・2)。 ◇そして、神様はそこで私たちが祝福の源となることを願ってくださいます。私たちが特に夢を見ることを忘れてしまっている時にも神様は私たちに対して夢を見させて下さいます。あなたが祝福の源となって、祝福があなたから生まれて出て行く。あなたが良い言葉を語ることによって、その周りもまた良い言葉が、祝福が満ち溢れて行くのだと語られます。神様が小さな私たちの人生にじっと目を留めていて下さるのです。そして、小さな場所に閉じ込もってしまっている私たちを、「ちょっと窓を開けてご覧、扉を開いてご覧」と繰り返し旅に誘って下さいます。神様の誘いに従ったその時に私たちは聞くことができることでしょう。祝福の言葉を聞くことができることでしょう。「あなたは良く私に従った。あなたはその地で祝福の源となる。」(信徒伝道者 裵 在伊)

○代田教会会報 2015年1月号より
◇12月から平野先生と共にクリスマスの訪問聖餐に回りました。今回のクリスマスの訪問聖餐は喜びと涙が溢れている訪問でした。 教会に来られない方々の中には様々な理由があり、それぞれの事情があります。けれども、今回のクリスマスの訪問聖餐は特に年を重ね、体が弱ってきて教会に来られなくなった方々を中心に回りました。今まで、なかなか訪問できなかった久しぶりの方々をも訪問することができました。◇しかし、初めて会ったとしても、久しぶりに会ったとしても、小さなクリスマスの礼拝の中に、確かな救い主イエス・キリストの喜びがありました。その出会いとお交わりの中には主が共にいてくださったことに感謝の涙がありました。その喜びと涙はただの喜びと悲しくて、苦しくて流す涙ではありませんでした。確かに、それぞれの歩みの中には大変さがあり、悲しい苦しいこともありました。どんどん年を重ね、体が弱っていく一方であり、様々な問題や課題があって教会に来られなくなってしまう方もいます。自分でも思いがけず心の病や体の病を持って一日を過ごす方もいます。なかなか自分の思い通りに体が動かなくなってゆっくりと体を動かしながら過ごす方もいますしベッドで体を横にして、ただ「主よ」とお祈りしながら一日を過ごす方もいます。その生活の中で教会の方々とのお交わりのことを思い起こしながら、涙を流している方もいます。◇しかし、その一人ひとりの喜びと涙はただそれだけの喜びと涙ではありませんでした。それらはすべての悲しみや苦しみを超えた救い主への喜びと感謝の涙でした。救い主イエス・キリストが今ここに来てくださっていることの喜びと涙です。年を重ね、体はどんどん弱っていく一方である自分のところにも来てくださって「恐れるな」と言ってくださる救い主に感謝し、ほめたたえる喜びでした。救い主イエス・キリストがそれぞれの場所で、それぞれの方々と共にいてくださっていることへの感謝の喜びでした。(信徒伝道者 裵 在伊)

○代田教会会報 2014年12月号より
◇「アドベントクランツにあかりがつくと、かみの子イェスさまのおたんじょうがちかくなる。まことのひかりイェスさまのおたんじょうをみんながまっています。みんながまっています」と歌いながらイエス様のお誕生日を待っている人々がいます。代田教会の幼稚園の子どもたちです。子どもたち一人一人が心を込めて、声を合わせて歌いながらイエス様のお誕生日を皆で待っています。 ◇それは、代田教会の幼稚園の子どもたちだけではありません。代田教会の皆さんも、いや、世界のキリスト者たちも皆、神の独り子イエス・キリストのお誕生日を待ち望んでいます。 ◇11月30日(日)からみ子主イエスの降誕を待ち望むアドベントが始まりました。 アドベントとは、イエス・キリストの降誕を待ち望む時期のことです。アドベントクランツに4本の蝋燭を立てて、11月30日(日)に第一主日として1本目の蝋燭に火をともし、真の光イエス・キリストのお誕生日を教会の皆さんが喜びを持って待っています。 ◇主イエス・キリストは神の独り子であり、神と等しい方であります。その神と等しい方として来られた主イエスは、私たちを愛しておられ、私たちを暗闇から救おうとしておられました。その神の独り子である主イエスは、暗闇である世を照らす光として来られました。主イエスは、命であり、光であるということです。主イエスは光としてこの世の暗闇の中で輝いています。そして、真の光を理解できなかった私たちが、その光に照らされて変えられます。主イエスは私たちに「あなたがたは世の光である」と言われました。私たちは主イエスを信じて、光となったのです。だから、私たち一人ひとりは、光の子です。これから私たちは、光の子として、この世を歩いていきます。真っ暗なところを照らして、輝いていきます。それがどんなに小さな光であっても周りを明るく照らします。なぜなら、私たちを通して主イエスが輝いてくださるからです。(信徒伝道者 裵 在伊)

○代田教会会報 2014年11月号より
◇小さな部屋で涙と一緒に喜びの声が聞こえました。「アーメン」、「先生、奇跡ですよね」との涙の声、感謝の声、喜びの声でした。確かに奇跡と思えることが起こったのです。それは、9月17日松永和郎さんが病床洗礼を行う時のことです。平野牧師が病院に訪問するたび、松永和郎さんに洗礼を受けることを勧められました。けれども、なかなか「はい」とは言われませんでした。 ◇しかしその日、平野牧師は、様々なお話をなさいました。その後、洗礼を受けましょうと言った時、奇跡が起こったのです。松永和郎さんが「はい、受けます」とはっきりと言われました。「主イエス・キリストによってお祈りいたします」と祈ると、「アーメン」と言われました。和郎さんの中で奇跡が起こったのです。その方の中を主の光が照らしていたのです。確かな救いの喜びが溢れていました。 ◇それまでは和郎さん自身の知識で主イエス・キリストのことを理解しようとし、目に見える確かなこと求めたかったのだと思います。自分の中で納得出来ない、何か自分の心にピンと来ないものがあってなかなか洗礼を受けようとしなかったと思われます。しかし、和郎さん自身の知識では理解が出来ない、納得が出来ないけれども、それ以上のお方が存在し、そのお方は主イエス・キリストであることがわかったのです。目には見えないけれども、自分の知識では理解出来ないけれども、主イエス・キリストの愛があることを感じたのです。病床洗礼を受け、一回の訪問聖餐式を行い、救いである主イエス・キリストを信じ、「アーメン」と言えるようになった松永和郎さんは11月一日に天に召されました。今この地上にはおられないけれども、確かな永遠の命を頂き、何より主の御許で喜んでおられることでしょう。 ◇私はその過程を見ながら感じさせられることがありました。主イエスを信じ、告白することによって、主イエスが私たちを変えて行かれ、「アーメン」と言う者になっていくということです。(信徒伝道者 裵 在伊)

○代田教会会報 2014年10月号より
◇「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」(イザヤ書50・10) ◇9月14日の主日礼拝は、敬老の祝福の時間を持ちました。代田教会は80歳以上の方々が60名おられます。60名が皆教会に来て礼拝を捧げることはできませんでしたが、60名一人ひとりはこの代田教会を支えて来た方々です。その一人ひとりがいたからこそ今の代田教会があると言えるでしょう。その一人ひとりは共に福音に仕えて来られた方々です。ここに集められて共に礼拝し、共に賛美し、共に励ましあいながら共に福音に仕えて来られました。 ◇ 敬老の祝福の時は、毎週教会の門をくぐって礼拝をしたくても、それが中々出来なかった方々が教会に来られました。それぞれの場所から、教会の門に入るまでには、どんなに体が疲れたことでしょう。けれども、教会に入り礼拝堂に座って共に礼拝を捧げる喜びはどれほど大きなことでしょう。その心の喜びの希望をもって一歩一歩歩いて教会へと向かって来られました。その方一人ひとりは私たちと共に福音に仕えた方々です。 ◇60名だけではなく、また私たち一人ひとりがその80歳以上の方々と共に福音に仕えています。代田教会に通っている年数はそれぞれ違うかもしれませんが、その方々の信仰の励ましを戴きながら共に福音に仕えています。私も年を取って行けば行くほど、あのように素敵な信仰者になりたいと思いました。その一人ひとりが何の問題もなく、教会生活したとか、沢山奉仕をしたからではありません。様々な課題や問題があり、パウロが言っている不平や理屈を言いながら傷つけたり、喧嘩したりしたかも知れない。その一つ一つを信仰の中で互いに乗り越え、互いに信頼が出来る福音の同労者になっているからです。それは、闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼して歩んで来たということでしょう。 (信徒伝道者 裵 在伊)

○代田教会会報 2014年9月号より
◇この夏、代田教会のキャンプ以外に、日本基督教団「教会中高生・青年大会2014」のキャンプに代田教会の青年3人と共に参加させて頂きました。教団では、いわゆる教団紛争以来ずっと青年大会を行って来ておらず、約50年ぶりの呼びかけとなりました。 ◇日本基督教団「教会中高生・青年大会2014」の目的は、「(1)日本伝道の幻に仕えるために、次代の教会を担う若き器が育てられる。(2)日本伝道の幻に仕える伝道者が起こされる」ことです。 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3・6)。 ◇「イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」という主題をもって2泊3日のキャンプが始められました。この御言葉通りに「イエス・キリストの名によって立ち上がり歩こう」としている若者たちが希望をもって「教会中高生・青年大会」のために日本各地から、海の彼方から東山荘に集められました。その数は北海道から沖縄までにある153教会の若者たち、アメリカ、ドイツ、台湾、韓国の教会の若者たちも含めて371名の参加者でした。この若者たちは、ここでしか体験出来ない出会いを通して「イエス・キリストの名によって立ち上がり歩こう」としている者たちでした。その一人ひとりはそれぞれ違う形でイエス様と出会い、御言葉によって心燃やされ、求道者に洗礼の決意が与えられ、キリスト者の中から伝道者として献身する心が与えられて行きました。日常の生活から離れて恵まれた環境で寝食を共にしながら信仰の友達と出会い、新しい自分と出会う三日間になって行くのを経験しました。 ◇私はこのキャンプを通して日本の若い信仰者たちの希望をみました。それぞれ金や銀はないが「イエス・キリトの名によって立ち上がり歩く」ようになっている若者たちの信仰と希望をみました。(信徒伝道者 裵 在伊)

○代田教会会報 2014年8月号より
この夏、ジュニア科キャンプと子ども科サマーキャンプに行って参りました。ジュニア科キャンプは2泊3日で那須塩原市にあるアジア学院で行いました。私は、ジュニア科メンバーと一緒に夏のワークキャンプに参加させて頂いたのは去年からです。去年と今年、それぞれ違う楽しさがあり、また学びがありました。特に去年は神学生として参加させて頂いたので、プログラムを全体的に見ることより自分に任されたことだけやれば良かったのです。今年は立場が変わって、責任者としてプログラムを全体的に見ることになりました。そうすると、去年は見えなかった部分が見えて来ました。それは、ジュニア科メンバー一人一人が成長していることでした。見た目だけではなく、考えや意識が成長してが見えて来ました。去年より今年、キャンプが始まった日より今日、今日より明日と少しずつ変わって行く姿が見えました。それは、「共に生きる」、すなわち「互いに生活する」中での成長です。自分だけではなく、相手の気持ちを考える、「共に生きるために」私たち一人一人がどうすれば良いのかを考えていく力が出来たと思います。  子ども科サマーキャンプは、「あなたがたは世の光である」というテーマを持って「トーチベアラーズ山中湖」で行いました。私は子ども科キャンプに行くのは今年がはじめてでした。わくわくしながらどのようなキャンプになるだろうかと期待と希望を持って行きました。子ども科キャンプは開会礼拝から閉会礼拝までリーダーと子ども達一人ひとりがひとつになって「あなたがたは世の光である」というテーマに一貫して取り組み、全てのプログラムを行いました。そして、2泊3日という短いプログラムの中で子ども達一人ひとりは、神様の子どもとして輝いていきました。どんなに小さな子どもであってもどんなに小さな光であっても、まわりを明るく照らす光の子どもとしてこの世界を歩いていく子どもになっていました。  (信徒伝道者 裵 在伊)

○代田教会会報 2014年6月号より
毎日、窓から窓へと聞こえる声があります。その声は代田教会の幼稚園の子ども達の声です。神様に感謝するお祈りと喜びの讃美の歌声です。その中で歌っている子ども達は主イエスの喜びの福音をお互いに歌いながら聞いていることでしょう。食事の感謝の祈りも子ども達は声を合わせて「めぐみの神さま、今いただくたべものを、主イエスの名によって感謝します」と祈りの歌を、感謝を持って喜びの声で大きく歌うのです。その場で、祈りと賛美を歌っている子ども達はお互いに福音の種を蒔いていることでしょう。  5月はイスーターの訪問聖餐を行いました。それぞれ違う場所にいるけれども、一年に一回かあるいは二回訪問聖餐に来る代田教会の牧師と教会員を待っている方々がいました。目はよく見えない、耳は聞こえない、記憶は薄くなっている、けれども、忘れていないことがありました。「代田教会」という名前です。「何々さん、代田教会から来ました」と言うと、ニコニコしながら笑顔で迎えて下さるのです。「私の教会、代田教会」と喜びながら言うのです。また、愛唱讃美歌と主の祈りを忘れていませんでした。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。代田教会の仲間たちと共に祈り、共に讃美歌を歌い、共に聖餐にあずかる日を待っている方々です。そこに主の喜びがあることを、福音の喜びがあることを感じました。その祈りと喜びの讃美歌を歌うことだけで終わるのではなく、その祈りと喜びの歌で、そこで共に生活している方々に響くのです。伝えていくのです。今は何も出来ないと思っているかもしれませんが、違います。そこで共に祈り、賛美の歌声を聞いている方々がいます。(信徒伝道者 裵在伊)

○代田教会会報 2014年5月号より
◇カール・バルトは、「神の言葉は聖書の中での神自身である。なぜならば神は、主として昔モーセ及び預言者たちに、福音記者および使徒たちに語られた後、神がそれらのものによって書かれた言葉を通して、同じひとりの主としてその教会に語りかけてい給うからである。聖書は、それが教会に対して聖霊を通し、神の啓示についての証言となったし、神の啓示についての証言となることによって、同時に、聖であり、神の言葉である」と述べています。すなわち、神の言葉は、モーセに対して「主である」として現れた神ご自身であり、預言者たちに対して、また福音書記者や使徒たちに神が語られた言葉であるだけでなく、場所も時代も隔たった今も、その同じ主が教会に対して語りかけられている言葉なのであります。聖書に記された言葉は、教会において、神の証言となることによって、神の言葉となるのであります。 ◇神の言葉とは何であろうか。いかにして人は神の言葉を聞き、神の言葉として受け入れ得るのだろうか。テサロニケの信徒への手紙Ⅰ2章13節は、このように語っている。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。これは、テサロニケの人々が自分が語った言葉を神の言葉として受け入れたという事実に対するパウロの感謝の言葉です。人々は、パウロの語った言葉を、ただ語られて過ぎ去ってゆく人間の言葉として聞いたのではなく、まさに永遠の命を約束する神の言葉として理解しました。人間の言葉を全くそのまま同時に、神の言葉として受け入れたのです。我々は、そのように、礼拝の中で語られている説教を、説教者は本当に神の言葉として語り、会衆者は本当に神の言葉として受け止めているでしょうか。(信徒伝道者 裵在伊)

○代田教会会報 2014年4月号より
◇私は、3月7日東京神学大学大学院を卒業し、4月から代田教会に遣わされ、代田教会で信徒伝道者として新しい歩みを始めました。神学生生活の中で、私の記憶に残っている出来事は、4年間という神学生生活そのものであったと思っています。なぜなら、何ひとつ欠けても今の私はいないからです。そのすべての出来事の中で神様が私を導いて下さって、歩ませて下さったからです。これからの代田教会での歩みも主イエス・キリストのお導きを信頼して歩もうと願っています。 ◇「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4・13)。 私は、私が伝道者として何かが出来るからここにいるのではなく、私を強めてくださる方がおられるからこそ、ここにいることが出来、私は出来なくてもその方の力ですべてが可能であることを覚え信じて、歩んで行きたいと思います。 ◇今日より明日が来ること、明日より明後日がくることの希望を見て進んで行きたいと思っています。しかしまた、今日という時間をも、与えられた時として大切に使いたいと願っています。言葉は十分ではないところがあるとは思いますが、精一杯心を尽くして代田教会の皆さんと共に歩んで行きたいと思っています。 ◇世田谷区には代田教会があること、代田教会には幼稚園の子どもたちがいるだけではなく、御年配の方々がいること、共に喜ぶ人の隣には共に悲しむ人もいること、語るものがいれば暑くても寒くても見えないところで奉仕している方々がいること、それらのさまざまな方々のことを覚えながら歩もうと思います。さらにまた、代田教会だけではなく、代田教会の外にも人々がいること、木ばかり見るのではなく、木の周りには森があることも覚えて生きて行きたいと思います。 ◇これらのすべては、決して私一人では出来ないことであります。皆様の祈りと支えをいただき、共に歩ませていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。  (信徒伝道者 裵在伊)